【2005年1月号】たまをふる たまをしずめる

2005年 1月号

たまをふる
たまをしずめる


 「たまをふる」。と聞くと、なにか元気になるよーな気がします。しかし「たま」はもちろん、そっちのたまではなくて、たましいの、たまである(神さま、ごめんなさい・・・)。そしてそれは古式のヒーリング法だ。
先日、まだ参ったことのなかった出雲大社に参拝し、翌日、物部神社に参拝させていただいた。気配のよい、立派な神社だった。物部鎮魂法を教えていただいている鈴木氏によると、気のよい神社というのは、常に「水平」の、たいらかな気があるのだという。これはなにかとっても納得できる。
物部神社では、宮司さんの弟さんに30分もかけてご祈祷いただいた(ありがとうございました)。後日、東京にて宮司さんご本人とお会いする機会があって、いろいろと古神道について教えていただいた。そもそも物部神社は物部氏のためにつくられたものだが、表社は奈良県天理市の石上(いそのかみ)神社であり、裏社が出雲の物部神社。石上神社が物部氏の武器庫だったのに比し、物部神社は物部氏の「祈祷」機能をつかさどっていたと。で、「物部氏」って何者? と思うでしょ。この物部氏を調べようとすると、歴史の深い深い迷宮の中で迷子になってしまうひともでる・・・。物部氏を愛する者たちの集い、みたいのもあるくらいで奥が深い。
物部氏は古い。日本建国のときには既にいた。もしかすると渡来系だったのかも。常に権力中枢の近くにいたので、国津神系(地方の有力者)をどんどん併合させて、しかしそのたましいをそのままにしておくのは、よろしくないので、物部氏が、たましずめ、するとともに、権力中枢(天皇、天津神)の、たまふり、もしていた。[たましずめは、別に、身体からいったん出てしまった、たま、をもう一度身体に戻って定着していただく、しずまっていただく、という蘇生的な究極のヒーリング法としても解釈されています]
物部神社の宮司は眼力のするどい方で、たましいのなかまで見通されるような迫力があったが、同時に深い慈悲にとんだ眼差しも感じさせる希有な神職で、鈴木氏ともども、古来からの鎮魂法にて、西洋医学的には袋小路の方を何人も救ってこられたようだ。
古神道の基本の考え方は、自然神であり、森羅万象神であるため、一神教にはない、おおらかさがある。日本の神の根本的性質は「和」であって、優しさと融和、平和が基になっていると。また宮司によると神道には、「まあかたいこといわんと、どっちゃでもええがな」という懐の深さがあり、政治に利用されたりしない限り、本来は一神教より寛容である。日本人の体質には、このイージー・ゴーイングな神さまが合っている。
これは鈴木さんにうかがった話だが、医学的には行き詰まった方を、たまふりするときに難しいのは、本人はもうイキ消沈しているのであって、その「たま」をふるためにはその本人が本当にリアルに「ワクワク」できることがないとあかんと。スキーが大好きなひとなら、「今年の冬にはロッキーを滑りに行くんだ! おー、それを考えただけでもワクワクして鳥肌立っちゃうなあ」、というその昂(たかぶ)った気持ち、それが、たまふりのひとつのカタチかもしれません。たまは、祭りで若人に揺らされる神の依代(よりしろ)、神輿(みこし)のように振られて、元気を取り戻していくのだ。
  喜多見 龍一


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