【2005年5月号】「まっ、いっか」の効用

2005年 5月号

「まっ、いっか」の効用

 最近、思う。「まっ、いっか」ちゅうのんも大切なんやな、と。この感覚を忘れないように、印刷物にして自分の目の前のカベに貼っておきたいくらいだ。自分の性格からして、いままでは物事が自分が思う完成形(かなり明確にディテールがある)にならないと、とーってもイヤだった。自分だったらもっと完璧にできるのにー、という自負も先に立つ。しかし、じいさんになり、頭も少しパーになって、「まっ、いっか」と、少しは思えるようになった。正確に言うと「まっ、いっか」の前に、「フーーーーーッ」(深いため息)があるんだけれども。「フーーーーッ、まっ、いっか」と。
こういうことに気がついたのは、50歳も過ぎたころで、それまでは、大げさにいうと、「世界は常に完璧でなければならない」と思ってきた。しかし当然そんなことはありえないわけで、「だからなんなのよー? 世界がいびつでも、世界は終わらないもんねー。でへでへ」というひとが自分のまわりにもいて、そういう「先生」たちにわたしは降参するわけです。
「へへー、わたくしが間違っておりましたー。年貢を払わせてくださーい」と。このサレンダー、状況へのサレンダー、というのは、ある種のひとびとにとっては、とても難しい。自分が世界を完全にコントロールできる、いや、少なくとも自分が見てしまった世界、隣り合わせてしまった世界に関しては、マネージしたい、できなきゃ絶対ヤダ、と思っているひとびと。女性だったら、高学歴で仕事もできる優秀なママさんみたいな。ところがどっこい、世界は常にいじわるで、絶対に言う通りにならないワガママな子ども、夫、同僚などをあなたに遣わす。他はすべて完璧なのに、そこだけ世界が裂けてるのよー、というよーな。そして、それら「悪魔のような天使」たちとさんざんストラッグルしたあげく、もう息があがっちゃって、ゼイゼイ、もうあかん、これ以上やってたら、自分が壊れてしまうー、と思うようになって初めて、「フーーーーーッ、まっ、いっか」がやってくる。やれやれ・・・。
東京弁の完璧に整理整頓された世界から、「ま、ええやないの、世界が終わるわけやなし・・・」という、大阪弁の(ゴメン・・・)えーかげんで、どーしょーもない、あるだけましの超ボロボロ世界へとコペルニクス的転回を受け入れるまでには、けっこう紆余曲折がある。そういうひとびとは、こういう世界がまったく許せないからだ。この「世界は、あんたの思うよーにはならへんねん」という命題は、サレンダーするまで、これでもかと形を変えてやってくる。あなたが同僚から去れば夫が、夫から去れば子が、さらにボロボロで操縦不能な世界へとあなたをいざなう・・・。
これもひとえに、人生のなかであなたは「常に啓発される方向に誘導される」という力が色濃く働いているからだ。もう、世界の中心で『もう、オレを啓発しないでいいんだーッ! オレはアホなまま死んでいくーッ!』と叫びたいほどだ。しかし、こうした法則は、世界の根本構造にかかわる仕組みであり、実際にはこの力から、なんぴとも逃れることあたわず・・・。きょうもあらたな犠牲者が・・・。
この人間の「向上心」、世界はもっとよくあるべきだ、という考えが、イヤそれよりも上位概念が存在する、という目からウロコの発見に、いやー参りましたね、世界はそうなってたんですかあ、失敬失敬、とその席を譲るまでには、ひとは世界をふたたび見いださねばならない。
世界はボロボロでもいいんだ。それより大切なことがあるかもしれない。ピカピカの世界が必ずしも万人に住みやすいとは限らない・・・。
いいねえ、この結論「世界はボロボロでいい」。好きだなあ。そこで救われ、ほっとできる空間が確保され、ふたたび息ができるようになるひとたちがいてくれたら、それだけで世界はよりピッカピッカと輝くのかもしれない。そんな輝きは、結構、泣ける・・・。
  喜多見 龍一


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