【2007年3月号】シンクロニシティのキモはより「本質」に近づくことにある。

たとえばあなたが、善意でだれかに 100万円さしあげたとする。後で返してもらうわけじゃなく。すると、翌日ぜんぜん別のひとからぜんぜん別の理由で 200万円戻ってきたりする。この場合、あなたがお金をだすときに、『ヘッヘッヘ、あすは倍返し・・・』などと夢にも思っていないのがポイントだが。さらに、あげた相手と返ってくる相手の間には、まったくなんの関係もないのだ。日常的に頻度の高いのは、ダイヤルしかけたら、その人から電話がかかってくる、かな。久しぶりに友人のことを思い浮かべたら、10分後に連絡がくる。この会社に入りたいと思っていたら、まったく関係ない雑誌にその募集がある。最愛の夫が亡くなったのは夫婦の結婚誕生日だった。これらのシンクロニシティの本質はなんだろうか。

私たちの世界がひとつの次元だけでできていると、こうしたことが起こるのは難しい。北海道のAさんが沖縄のBさんのことを考える。バングラディッシュのこどもに 100万円届けようと想像する。あの会社に入りたいと考える。愛しい夫とあとなんにち一緒にいられるだろうかと想う。だいたいすべて、あたまのなかでそれを「想像する」。意識の世界は時間と空間とヒトやモノの特定性から自由だ。意識のなかでは、自分の父親も、隣の家のおじさんも、別の人と認識はしているが、なんというか、もっと茫洋として、あいまいで境界線がぼやけている。夢のなかで別のひとがあなたと容易にすり代わるように、「あなた」と「わたし」の境界さえもあやふやである。

しかし、より「本質」的なものは現実世界より明確で、その「本質的なものが同質」であるなら、姿カタチはどうでもええじゃないか、時間なんかいつのことでもよろしい、という法則があるよーな気がする。いまその世界を仮に四次元と呼ぶとしよう。その四次元と、私たちがいるこの三次元、より固定化し、個別化し、本質よりは固体性が優先する世界との間に交通・交流がある。というよりむしろ、この三次元と、より高次な(別に偉いわけじゃない)四次元は、ひとつところに畳み込まれている。三を中心に上に四が畳まれているなら、下に二も畳まれているはずだ。六芒星は上昇する三角と下降する三角でできるのだから。

上下にはさまれ、さらにそのまた上も下もあるんだろうが、隣接した世界以上は、私たちの思いもよらない世界である。そもそも下の二次元だって思いもよらない。数学的には理解できるが、世界として思い描けない。しかし私たちが啓発して意識と行動が進化してくると(つまり悟りの構造の近づくと)、二次元にもよい影響が及ぶのだろうことは想像しうる。上には常に、下をひっぱりあげるチカラがある(まあ、逆も真なんだろうが)。私たちが「意識」つまり四次元に、「フォーカス」という形で、なにものかに向けて石を投げ入れる。そうすると、形のないグニュグニュな世界四次元から、そのレスポンス、反応が立ち上がって、投げた石つまりフォーカスに相応したカタチになって、この三次元の物理世界にグググググワンと立ち上がって返ってくるのだ(シンクロシニティ現象)。

三から四への刺激の与え方にも、なにか独特のルールがあるようにも思う。石の投げ方に。なぜって、四が受け取る場合とそうじゃない場合とがあるでしょう? しかし、それは三次元的なコツではなくて、もっと不定形な、でもより本質的なコツなわけで、マニュアル化はたぶんできない。私たちはここで「より本質的に」、意識世界に石を投げ入れないとならない。逆にいうと、この三次元でシンクロニシティが起こった、ということは、石の投げ方が意識的だったか無意識だったかに関係なく、「より本質的な領域に踏み込んで」四次元に石を投げ入れた、ということを表しているのかもしれない。私はこれを「シンクロ本気リトマス試験紙理論」と呼んでいるんだけど・・・。

喜多見 龍一


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