【2007年5月号】人はなぜフローな状態に惹かれるのか

1934年ハンガリー生まれの米国の心理学者、チクセントミハイ教授は1975年に出版した著書で「フロー」の概念を提唱した。[※以下お薦め書籍「フロー体験 喜びの現象学」(チクセントミハイ著 世界思想社刊)「フロー理論の展開」(世界思想社刊)]フローとは「我を忘れて没頭する状態」であり、のってるねえ、の「ノリ」であり、バシャールの「ワクワク」であり、マイク・マクマナスの言う「ソース」である。それはマズローのピーク・エクスペリエンス(法悦感)よりも広く、より日常的な概念である。

「ノリ」「ワクワク感」という、ある種わけのわからないものは、(意外にも)偉い学者さんたちがまじめに研究している。なぜならば、そこでは「モチベーション」とか、「論理を越えた超効率・超パフォーマンス」が発揮されることが知られていてビジネスに応用できるからだ。NLPでいう「ピーク・パフォーマンス」の概念にも、この「フロー」が関係している。人間を深くドライブさせるチカラをもっていることを皆、自分の体験として知っている。

チクセントミハイ教授も、日本のフロー研究者も、マイク・マクマナスも、バシャールも、どうやったら人間は、ノリノリのハッピー・スーパー・パフォーマーになれるんだ? ということを深く掘った。(フローの状態では、本人は「超幸せ」なところが特長であり、ドライブ感を生み出す源泉でもある)

教授は、フローの状態では、時間がゆがむ(速く進む)、と言っている。また、なにかを成し遂げるときに「それを成し遂げること自体が目的であり報酬である」(つまり、ほかになんにもいらねえや状態である、とも語っている。これもすごいことだ。お金や称賛なんかいらないんです。学者さんたちは自己目的化と呼んでいる)。しかも、やることの対象が、あんまり簡単でスイスイできちゃうことではなくて、チャレンジングな難易度の高い部分が「適度に」ある必要がある。また、身体からはいるフローというのもあって、祭で神輿を担ぐときがそうだ。いやいやそんな大層なことしなくても、親しい友人と目的もなくしゃべっているときだってフローな状態に入るぞという観察も。確かにそうだ。スポーツ選手、たとえばサッカー選手がフロー状態にはいると、走っている自分を止められる相手選手は皆無となり、ゴール前のすべてのワザは「自然に」(spontaneously) 「完璧に」決まったりする。まるで時間と空間が光でつつまれて、そこだけ特別な空間になったかのように。

監獄のなかでもフローは体験される。超拘束で、楽しいことなんかなにもない理不尽な空間で、自分の正気を保つために、ひとはさまざまなことをする。書籍によると、北ベトナムにつかまった米空軍の捕虜が監獄のなかで(イメージで)毎日18ホールのゴルフプレイをしていたという。数年にわたる拘束からやっと解放された彼は、なにをしたいか?との問いに「ゴルフ」と答え、何ポンドも減った体重で見事なショットを決めた。つまり彼にとっては、ゴルフがフローであって、彼の正気を保つ源泉だったわけだ。

フローは、「没頭」である。たぶんそれはまた「催眠状態」でもあると思われる。「神がかり」と言ってもいい。「魂が喜びで震えている」状態以外のなにものでも、ない。つまり、このフローの状態は、「スピリットと物理次元の二重性」を基準に考えないと本質に行き着けない。「パワー・オブ・フロー」(河出書房新社刊)では、シンクロニシティの頻出とフローに相関性がある、と説いていて、そういうこともあるのかあ、と思わせる。逆にいうと、フローの状態にいま自分がいるかどうかのリトマス試験紙として、シンクロニシティの現出が使える、と。

ある方向性の行動をすると、魂がなぜ「喜ぶ」のか、が本質的には面白い。そのひとの心の琴線に触れる物事は、ひとによって違う。あるひとにとってはクルマに乗りシフトを入れる瞬間であり、あるひとにとっては中華ナベに具材を入れて強火で炎に包ませる瞬間である。その違いは「魂の鋳型」からやってくる。私たちの二重性は、その魂の鋳型と現実生活の乖離あるいは接近によって、あるものにはワクワクし、あるものにはまったくワクワクしない。マイク・マクマナスの「ソース」の技法もそうだが、魂の鋳型は、自分の子どもの頃から現在までの「魂が震えるほどの喜びの記憶」のなかに眠っている。だれもそれを証明はできないが、魂の来歴、蜜壺に収められた数限りない別人生の経験の集積から鋳型は創られる(よーな気がする・・・そうに違いない・・・)。

喜多見 龍一


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