【2008年1月号】日常のなかのカタルシスは、芝居のエンディングのように、私たちの「叶わなかった想い」を洗い流してくれる。

上野の不忍池のほとりに立った、唐十郎の紅テントで「風の又三郎」(だったかな?)を観たときから、ズボッと沼に吸いこまれるように、芝居が好きになってしまった。あの猥雑な異空間と、そこにあるすべてが好きだった。錬金術のように練られ、やがて立ち上ってくる詩的な空間。筋を追おうとしても意図して禁じられる論理的な思考。そして、やがてやってくる思考の停止と形のない深い陶酔。役者たちの独特の抑揚とアクセント。まるで言葉が指し示していることなんか、おれたちはどうでもいいんだと言わんばかりの、一連の言葉のうねりと速射。計算されつくされたタイミングで静かに流れ始める、壊れたオルガンのような音楽。それらすべてが、観ている私たちの「感情」を、急斜面を静かにガタゴト登るジェット・コースターのように、山頂めがけてゆっくりと運ぶ。そして登りつめた、と思った瞬間、その感情の大波は、ぱんぱんにふくらんだ巨大な風船が破裂するように、一気に小さな断片になって四方に飛散する。緊張の蒸気は、蒸気を吹きこぼしながら弛緩していくのだ。そしてやってくる、限りない静寂と安らぎ。あー、これだ、この感覚だ…。限りなく深い満足感…。思考は停止し、頭は真空で、ほうけたようにも思うが、するどく研ぎ澄まされたようにも思える…。

これが芝居小屋で起こっているカタルシスだ。私たちの日頃の感情、くだらぬことでしたケンカや、会社の上司からの叱責や、思った通りに進まぬ子どもの教育など、そうしたもろもろの感情のオリを洗い流し、赤子の肌のように透明な心にして私たちを家に帰してくれる。カタルシスは、よごれちまった魂を洗濯してくれる。

カタルシスが起こるためには、いくつかのことが必要だ。テンション、精神の緊張が極限まで高まっているか、もしくは、論理的な思考が完全に停止状態にある、あるいは詩的な時空間に身を置くことである種の高度にボヤっとした意識状態になる、激しく感情をもっていかれる体験をする、そうした意識状態の直後に、神々しい解放がやってくるのだ。

それは呼吸に似ている。極限まで息を吸い続けると、あとはもう吐くしかない。ふうーーーー、と息を吐くプロセス、それこそがカタルシスそのものである。しかし息を吸うプロセスが中途半端ならば、カタルシスは起こらない。極限まで吸い、もうこれ以上は吸えない、という直前まで行けば行くほど、その後に起こるカタルシスの深さも深くなる。

矢吹丈と力石徹は、力の限りパンチを繰り出し、互いの命をおびやかす限界寸前まで行って、はじめて深い尊敬と友情で結ばれる。こうしたカタルシスの力学には、他のものにはない力強さと、白と黒の煮詰まってしまった対立を中和する力が秘められている。

しかしカタルシスは現在では、成立がむずかしくなっているかもしれない。それは、神が地上に降り立ったかのような荘厳な力を秘めているが、その神の尊顔を拝するには、その前に「とことん」やらなければならないからだ。矢吹丈は、もういない。

まったく相いれない陽の極と陰の極は、誰もが統合できないと思っている。しかし論理性から深く離れることができれば、それらが溶け合う瞬間にわたしたちは立ち会うことができる。カタルシスが起こる瞬間は、陰陽がひとつに溶ける神々しく、美しい瞬間である。それは同時に魂そのものが癒される瞬間でもある。私たちは時間と論理のない次元から深く癒され、また新しい明日に向かって再生することができるのだ。

喜多見 龍一


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