【2008年3月号】おとなのスイッチを切るとクリエイティブの泉から水が溢れ出る。

荒井良二という絵本作家がいて、ふにゃらかした素敵な絵本を描いているわけだが、このひとの絵本の描き方が面白い。絵本といったときに思い浮かべる、ふつうはこう描くんだよね、という手順自体から離れるべく、子どもが白い紙に向かうときのような気持ちで絵を描いている。この人の描き方は、なにを描くかの下絵が最初からなかったりもするのだ。そうすると、おっつけどうなるかというと、手が先に勝手に描くわけだ。こどもに白い紙とクレヨンを渡したときのことを想像してみてほしい。

こどもは「オレンジ色のクレヨン」が白い紙の上を走って行って、オイルっぽいオレンジ色や線や面が紙の上に生まれてくるその感じ自体が楽しいのだ。だから全面オレンジに塗ってしまったりする。そうすると、なにかこのオレンジ色には厚みがありそうだ。ツメで引っかいてみる。下の白い紙が出てきたりする。ツメがオレンジ色になる、みたいな・・・。絵というものは情景を写すもの、という基本概念以前の、単純で根本的な描く楽しみ。こうしたことを、私たちは日常のなかですっかり忘れている。それはちょうど、22度Cの温度のなかにいると、私たちは今22度の温度に囲まれているという事実を忘れてしまうようなものだ。極寒や猛暑なら温度を意識できるが、あまりにぬるい環境ではそれをすっかり忘れてしまう。

クレヨンを紙の上で無心に動かすように、私たちは目的地なく歩き始めることがあるだろうか? すべてが合目的的になっていないだろうか? 人間がこどもからおとなになっていくときに、私たちは世の中の動きを知り、この白い紙の冒険は、どんどんオーガナイズされていく。目的に貢献しないことはしなくなる。確かにその方が生きやすくはあるのだが、そうした人生を長くおくってきたある日突然、こう思ったりもする。『いや、待てよ。未来まで見通しが利きすぎてしまう人生って、むなしくないか・・・?』と。ここでわかるのは、私たちには「おとなのパーセンテージと」「こどものパーセンテージ」がひとりのなかに混在していて、その比率がおとな90対こども10などと偏りすぎると、たぶんバランスをくずしていくのだ。

こどものパーセンテージが多いひとは、少し社会のなかでは生きにくい部分もあるかもしれないが、しかし「より制約や条件から自由」であるし、「クリエティビティが高い」。思わぬ方向に進んだりするので、遺伝子が突然変異して生命体のバラエティを増やすように、人生のなかのジョーカーとして人生に「ランダム」を発生させ、人生をかきまわすことができる。進化や気づきには、こうした「かきまわし」が必要なのだ。「良い悪い」という軸と「役に立つ」という軸から完全に自由でもある。本来、情熱には、こうした自由闊達な部分があると思われるが、ダリルがワクワクを説明するときに、必ずwith integrity(やさしさをもって)と付け加えたように、情熱にはまわりのことなんか知っちゃあいねえ的な部分も少しあるのだろう。

おとな世界でなにかの問題解決をしたいときに、論理性の権化のような欧米人的感覚での問題解決の道もあって、そこそこの成果は上がると思われるがしかし、このこどものチカラもまた、まったく別のベクトルで問題解決をもたらしたりする。その場合は、あんまりなにも考えていない。論理性はまったくない。絶体絶命的な状況下で、「まあ、とにかく散歩に行こう」的な発想だから。

しかし散歩に出かけて、木立の下を歩いているとき、葉陰から降りてきたクモを目にして、「(ピカッ!)オッ、そうじゃないか!!」などと叫んで、決定的なオプションに気付いたりするものだ。これは「こども」がもたらした、人生の神秘としか言いようがない。論理的なアメリカ人の道、というのも、ある程度までは文化の王道であろうが、それを超えると、この「こどもの道」がランダムを発生させる、より上位概念として見直されるのではないか、そう私は思っている。

喜多見 龍一

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