【2007年11月号】3,500km を歩く旅は魂のみなもとに戻る旅だ

こんな軽装では歩かないが、この写真は実際のトレイルです矢印デザインのアパラチアン・トレイルの道標

アパラチアン・トレイル」(appalachian trail) というアメリカ東海岸のアパラチア山脈沿いに3,500km ものトレッキングロードがある 。南はジョージア州のスプリンガー山から、北はメイン州のカタディン山まで、森のなかの道。North Bound(北行き) でもSouth Bound(南行き) でも、全踏破する根性あるひと(全体の10%位という)は、輝く名称スルー・ハイカー(Thru-Hiker)と呼ばれる。しかしたとえ根性があったとしても、全踏破には、春から秋まで約6カ月はかかるのだ。

日本でいえば、四国のお遍路道だ。こちらは「順打ち」(時計まわり)、「逆打ち」(反時計まわり)があり、四国四県全88札所 1,200kmを、約2 カ月弱かけて歩く。

米国のアパラチアン・トレイルであろうと日本のお遍路道であろうと、これらの道を歩くひとは、人生のなかの「中間地帯」にいるひとが多いかもしれない。ひとつの生と次の生の間にあるのは「中有(ちゅうゆう)」と呼ばれるが、ひとつの人生のなかにある、ある方向性の人生と、まったく違った別の方向性の人生の間にある「真空地帯」(人生のなかの中有)にいると思われるひとびとが多く歩いている。このことは日米でも大差はない。著名法律事務所のIT担当から突然解雇された40代とおぼしき男性、ベトナム戦争で友は死に自分は生き残った老いた裸足の男、突然襲った大病をからボロボロになりながらも命からがら生還した男性、人生の長い時間をともに暮らしてきたパートナーを失った初老の女性、5年ほど早期退職して、さてこれからなにをしようかという60歳。フリーターを長く続けてきたが、もうすぐ35歳も近くなって、さてと考える男性などなど。

こうしたとき、ひとがとにかく「歩きたくなる」のは納得できる。また、前向きの意図も感じる。変化の予感を感じるときには、たとえそれが散歩の距離であっても、歩くことがぴったりくる。それが、なににもましてすぐれたセルフ・セラピーでもありうるのだから。

歩いていると、自然と、深い呼吸のなかでいろいろなことを考える。そこには独特の意識空間がある。時間軸は容易にタイムスリップされ、おさない頃、母といっしょに近くの森にきのこを採りに行き、夕暮れ前に一休みしながら食べたチョコレートの味や、小学校3年の夏に風呂に浮かべることを考えて夢中で造った模型の艦船や、十五夜の晩に兄と一緒にススキを採りに行った帰り道の、さみしいような感覚などが、突然のように思い出されてくる。それらの記憶の断片のなかに、「たくみに隠された魂の破片」。そして、それらの記憶は自然と、「そもそも、わたしという人間が何者だったのか」という、魂のみなもと、ルーツ、ソースへとわたしたちをいざなう。

多くの人の人生に影響を与えたマイクの本「ソース」

ウン? ちょっと待てよ、この、ひとが歩くときの独特の意識空間のプロセスは、どこかで見たことがあるぞ、と思ったら、それはマイク・マクマナス(故人)の「ソース」のプログラムそのものだった。魂の源(ソース)を、現在から過去に向かって時間軸をさかのぼっていく旅。そしてそこに落ちていたフラグメント(思い出の破片)を一度テーブルの上にすべて載せ、その後にそれを思わぬ方法で編集し、再構成する。そこから立ち上ってくる、みずからの人生の、たぶんに魂の、ベクトルはあなたの新しい人生のマイルストーンとなり、道を照らすともしびとなるだろう。

わたしは自分のこどもたちが理解できるようになったら、きっとソースをやってみたらと勧めるだろう。NLPなどと同じく、それほどこれは良質なコンテンツのひとつだと自信をもてる。そこでは、1,200km 、3,500km を歩くなかで起こることは、まったく同じように起こるのだ。

「ソース」のプロセスは、アメリカでは地方自治体や政府機関や学校などでも試され、多くのひとびとの人生に深く関わってきた。わたしがマイクの最期の病床に駆けつけたとき、同じ病室にいたたくさんのソースの修了生たちの、ソースの教師マイクへの熱い想いと、実際に体験したみずからの人生の転換。日本版を始めてからも、本やセミナーやキットなどの体験者から絶え間なく届く感謝の手紙。それらは「ソース」のすぐれた有効性を語っている。3,500km を歩く途中で出会った、名前も知らないハイカーとの会話から起こる特別な意識の想起も、1km そしてまた1km とみずからの魂の根源へと近づく旅路も、山から吹き抜ける一陣の風のなかでひらめく突然の「理解」も、そうしたもののすべてが、この「ソース」のなかに、自然なかたちで織り込まれている。ひとが人生のなかで、大きなブレークスルーを体験するときに、なにがその「栄養」となるのかをマイクは事前に知っていたのだと、今にして思う。

自分の魂が、今回の生の前にコミットしてきた「魂のベクトル」。それをなかなか、ひとは言語化できない。もちろん、放っておいても、そのベクトルにそれた道を長く歩いていると、(自然と)ガチョーンな突発事項が起こって軌道修正され、知らされることがあるにせよ、だ。そもそもこの魂のベクトルは、それほど明確に、それほど簡単にわたしたちに認知されないような、人生の仕組みがあるようにも思われる。それはあまり論理的に言葉で、狭いエリアに絞り込んで言い表せるようなものではなく、外堀を埋めていくとそこに立ち上ってくるある茫洋としたエリアでしか表現できないのかもしれない(ソースではドメインを設定し言語化はしますが)。私たちの一般的な価値観や、倫理観、道徳観とも、あまり整合性はない(と、言ったからといって悪いことをしなさいと言っているわけではない)。その茫洋とした、あるエリアに私たちは具体的な表現、あるひとにとっては「仕事」だったり、「社会への関わり」だったり、「ひととの付き合い」だったり、「芸術」だったりするのだろうが、そうした具体性としてこの世で表現される。そしてそれらは、人生が進んでいくと、あるときまた、突然別のものに取って代わられたりするのだ。そしてその変化の直前に、わたしたちは、ふたたび長い道を歩きたくなる。人生の中有は、歩きながら、魂の根源をふたたび探る、味わい深い旅路であり、人生のなかで、何度かやってくる。

喜多見 龍一


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