【1997年1月号】言葉が必要ないとき、言葉を発するのは悲しい・・・。

1997年 1月号

言葉が必要ないとき、言葉を発するのは悲しい・・・。

美しい夕焼け、暑くもなく、寒くもなく、海から吹く風が頬を撫ぜて、世界は一服の絵となる。そんな瞬間、そばにいる人に感動を「言葉」でくどくど説明することほど、完璧な瞬間を堕落させるものも、ない。

人と人が完璧にひとつの時間と空間を共有する。美しい瞬間。こうしたとき、私たちは言葉以外のところで「お話しをしている」。きっと身体が語る言葉の方が、声の言葉よりも上質で豊穰なのだ。私たちが「至福」を感じるのは、こんな瞬間である。しかし、すっとんきょうな人間というのはいるもので、場をぶち壊したりする。だいたいは、声のトーンが、そぐわない。

高い。トーンが。つまり、しゃべっている内容ではなく、人間は相手の「声のトーン」を聞いて、情報を判断しているのだ。催眠療法でも、療法家はレストランのメニューを読んでいていいのだと思う。人は声の「トーン」で癒されたり、説得されたりするのだ。がしかし、かといって、しかしながら(しつこい)、言葉が必要なときに、言葉が発せられないこともまた悲しい。

「ねえ、言わなくても分かるでしょ」というとき、人はだいたい、「さっぱり分からない」。起きていることはまったく同じ出来事を見て、Aは○と感じるが、Bは×と感じる。そんな感じ方の違いが、コミュニケーションを断絶させる。同じ日本人の話す同じひとつの日本語でありながら、各人の「言葉の定義」が違った場合もまた、悲惨である。個人の生きてきた歴史の違いが、言葉の定義の違いとなって現れる。こうした時、人は言葉を必要とする。しかし悲しいことに、こういう局面では、人は言葉を添える必要をまったく感じていないのだ。悲しい・・・。

  喜多見 龍一


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