【1997年9月号】世界の折り返し地点では、どこにフォーカスがいくのか。


1997年 9月号

世界の折り返し地点では、どこにフォーカスがいくのか。

あまりにもスピードが遅いと、まるで止まっているかのよう に見えることがある。あまりに相手が巨大するぎると、それは単に、ひとつの環境であるかのように思えることがある。

微生物のサイクルから宇宙全体のサイクルに至るまで、それが1個の生命だとしたら(実際に、そうなのだが)それには「呼吸」があるはずだ。ひと呼吸が150億年などという数字だと、そこに暮らしている別のレベルの生命(人間)にとっては、宇宙が呼吸をしているひとつの生命だなどとは、知るよしも、ない。微生物にとって、人間の呼吸を知るよしもないのと同じである。

よく箱根のみやげ物屋で売っている「箱の中に延々とさらに小さな箱がある、いれこ細工」のように、ある箱とある箱の間に浮いている箱、それが生命であり、その構造が理解されないと、生命体の理解とその相互依存がよく理解できない。そもそも、現在の生命の定義自体が狭義すぎて、「宇宙」や「地球」そのものがひとつの「生命体」であるとの認識から私たちの目を遠ざけている。

で、「今回の」宇宙という生命体にとって、時間軸としてではなく、生命体として、 いまのこの時期というのは、ちょうど折り返し地点にあるような気がする。本を閉じるように、「今」を境にパタンと閉じられるような感覚。通常、こうした折り返し地点では、ふたつの力が働く。

ひとつは「限りなくリニアに次をめざして突き進む力」と「あたかも先祖帰りをするかのように、例えば縄文方向に戻ろうとする力」だ。この地点では、前回この生命体が進化を断念したポイントを超えようとするキシみが来るため、世界は混乱したかのように見える。しかし、それはキシみ、タワみながら、意志と意図の方向に静かに、まるで大きな船が方向転換する時のように、しずしずとコーナーを曲がる。
  喜多見 龍一


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