【1997年5月号】『善き意図』は、人をどこまで感動させ、どこまで連れていけるか。

喜多見 龍一の読むワークショップ
1997年 5月号

『善き意図』は、人をどこまで感動させ、どこまで連れていけるか。

ポジティブじゃ、ハッピーじゃのニューエイジは終わったが、それでもなお、ポジティブなことに人間は、本当に動かされる、というのもまた事実である。世界は「善き意図」によって根本的に動かされているという実感は確かにある。街の生活の実感レベルからいっても、世界を鳥瞰した実感レベルからいっても、まあ正しいと思う。

善き意図が必ずしも善き結果を生まないことがあるのは、人間の意識がまだ成熟の過程であるからに過ぎない。ここで面白いのは、それぞれの意識がどのレベルにあろうとも、それぞれの位置で「善き意図」を発揮するよう、DNAの深いレベルにプログラムされているという点にある。どんな生まれのどんな生後環境の人間にも、必ずある。それが発露しにくい場合があるとしたら、「自分にテレた」時か、善きことに「飽きた」時ぐらいだ(関係ないが、飽きるとは積極的行為。高次レベルに行く)。自分に余裕がある時に「善き意図」を行うというわけでもない。自分がガケから落ちようとする瞬間にも、人は人を助けようとしたりする。

また、となりを歩く人が3秒間、幸せを感じる街角の「善き意図」から、世界の一千万人の命を救う世界的「善き意図」まで、実に様々な次元と分野とレベルで「善き意図」は、人々を深く感動させ、動機づけし、限りない満足感を与え、連鎖し、複合し、深く静かに、波紋を拡げる。

人は「善き意図」と「なんか臭い善き意図」とを敏感に嗅ぎ分ける。じゃによって、疑似善き意図は長続きせず、自然淘汰される。しかもですよ、だれかに言われたわけじゃないのに、自然に善きことをしてしまうんです。偉いですな。人間てのは、実に。

そうしてないと、なぜか不満がたまるようにできてる。なんか、こうじゃないぞ人生は、みたいな感覚がどこかに残るようになってるんです。女性の方が生物学的に「善き意図」が多いような気配があるが、男性もボチボチ行きますよってに、いましばらく・・・。

  喜多見 龍一


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