【1997年7月号】「忘れる」ことの力と豊穰。


1997年 7月号

「忘れる」ことの力と豊穰。

よく忘れる。忘れるようにしているのではなく、ホントに忘れる。いいことも、悪いことも、なんでもかんでも。片っ端から。

40代からボケが始まったのじゃないとすれば、この生活習慣には、どこかに「(良いことも悪いことも)過去のことは関係ないッ」という意識と「暴発した感情は、そもそも本質的に私のものではないから、すぐにデタッチする(離れる)」という意識とが潜んでいるような気がする。

しかし、古い沼底から浮上する「悲しみや痛みの記憶」を忘れるのは理に適うが、「蜜のように甘い記憶」まで忘れることはないよーな気もする。時折、牛のようにクチャクチャ反芻して楽しんでもいいように思って、ちょっぴりもったいない。

また、エンターテナーがショータイムの前に株で 100万ドル損しても、幕が開くとお客の腹がよじれるほど笑わせる、というのは本当にプロフェショナルなことだ。(が、この場合、彼はあまり長生きできないと思う)烈火のごとく怒った人が、3秒後にはやさしく笑っている、なんてこともあります(ないよそんなの、と言う人、いるんですッ、そういう人)。

グルジェフおじさんが、たとえばそうだった。彼は怒るという行為に「自己同一化」していない。でも、「あんまり怒っていない」んじゃ全然なくて、近くにいた人によると、突然の落雷のように地響きをたてて灼熱の鋼と化し、誰も手をつけられなかったそうだ。100%表現しながら、なおかつ「怒っている私」を静かに認識しているワタシがおり、瞬間的に別の感情にも移行できた。瞬間的に「忘れられる」才能。おっさん、スゴいぞ。

「記憶」も「感情」も、私であって私でない。しかし、みずからナイフで腕を刺し、鮮血を見んと生きてる感覚がせん、という人は、それもまたよし。とことんやれば、いつか嫌になります。

  喜多見 龍一


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