【1998年5月号】縁側のおばあちゃんは、なぜ説得力があるのか?


1998年 5月号

縁側のおばあちゃんは、なぜ説得力があるのか?

先日、NLP関係の本の打合せをしていて、「縁側のおばあちゃん以上に説得力のある人がいようか?」という話になった。つまり、陽のあたる縁側に座ったおばあちゃんに、静かに言われたことは、だれにも否定できない。『・・・いかにも、仰せの通りでごじゃります・・・』(こういう場合、なぜか「おばあちゃん」の方がよい。おじいちゃんだと、まだ生臭い執着が残っていそうで、「老僧」になりきれない)

つまり、おばあちゃんは論理や自分側のバイアスを通してものを言っているのではなく、今までの七八十年にわたる生活の堆積の中から発酵したオーラとして言葉を発している。こういう場合、ひとは「はあ・・・」と言って後はだまるのである。別に語気が強かったわけではなく、日溜まりに寝ている猫を撫でながら言っているわけで。しかし、いわく言いがたい説得力がある。それは自身の人生すべてをかけた言葉であり、なんぴともそれに否と言うことはできない。

レストランのメニューを読んでドラマをつくることのできる役者が存在する。「説得力」とは、何度もいうが、言葉の内容とは関係ない。だから私たちは、相手の言葉の内容なんか聞いちゃーいないのだ。

NLPの最終コース、米国でのトレーニングは、そのことをよく分かっている。参加者がトレーナーの前で5分程プレゼンテーションするのだが、各国から集まった参加者はスペイン語だったり日本語だったりする。それらの言葉を解しない米国人トレーナーは、しかし、まったくそれを問題にしない。彼らが関知しているのは「言葉の内容以外のもの」だ。
つまり絵画や音楽と同じように「beeing(存在自体)は世界共通語であり、説得力そのもの」なのだ。「リアリティ」は言葉の裏に隠れ、ときに世界を動かし、ときに人を感動させ、ときに人をあたたかくさせる。

  喜多見 龍一


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