【1999年9月号】世界の明るさ・軽さは、究極の問い「世界は嘘かもしんない」から発する。


1999年 9月号

世界の明るさ・軽さは、究極の問い「世界は嘘かもしんない」から発する。

最近アメリカで「MATRIX」という映画を観てメチャクチャ面白かった。この現実って、なんか嘘かも、という人類共通の抜きがたく繰り返される想い。この現実・このリアリティは私たち自身が作っているんじゃなくて、外から(神や超越的存在。映画ではよく独裁者として描かれていて面白い)「与えられた」リアリティなんじゃねえの? という想い。つまり、”世界は神が観る夢”お釈迦さんの手の上の遊戯。ねえねえ、みんな、だとしたらどうする? この問いは、世界が今日で終わりだとしたらなにをしたい? という問いと似たところがあって、だからどうだってんだあ、べらぼうめえ、と答えるのが正解かもしれない。
絶対不可知にしくまれた絶妙のシステム。真理の二重螺旋構造。DNAとRNAのどちらが真実かを問うのは意味がない。本質的問いは、現し世、現し身(うつしよ・み/投影されたもの)を前提として、じゃあ、あんたどうすんの? であるが、役者は演じきる。プロだったら。

で、その結果が四次元データベース上に蓄積される。アカシャであり神の夢を観ている宇宙脳である。このアカシャの面白いところは蓄積データの「絶対平等」であって、場末の一家庭での出来事、15年間愛を待ちつづけてめげそうになっていたお母ちゃんがお父ちゃんからある日もらった優しい言葉とその一瞬の心の高揚。そういうのと、衆目関知の国際舞台で起きる新聞トップネタも、まったく等価であるということ。いいでしょ、これ。つまり、ここに、本質の答えがある。まあ、簡単に言っちゃうと「なあにしててもええんじゃのう、これが」となる。なんか、一瞬つまんなく見える結論でゴメン。でも、真理は常に円環構造、元の場所に戻ってくる。それでは、お後がよろしいようで、テケテンツクテン、って、まだ紙数があるぞ、芸をせい。

フロイト言うところのペルソナを着けるのと、神の夢の中で知りつつ演じ切るのとは、違う。それはなにか、軽さが違うのだ。ペルソナで演じている役者は、ややもするとその役と同一化してしまい、役と共倒れしたりするが、お釈迦さん掌役者軍団は「まあ、いいじゃん、なんでも」というところがあって、なかなかにその軽さが、あたりにある種の明るさをもたらすところが優れてよい。
  喜多見 龍一


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