【2010年11月号】映画のなかにある"セラピー"。堂々と、間違ったクジを引こう。

いい映画には、いつも人生の羅針盤になるような、深いけれども平明で味わいのある考え方が語られている。最近観た映画「いつか眠りにつく前に」も、そうした映画のひとつだった。日本公開は2008年。この映画は、ひとりのアメリカのおばあちゃんが、亡くなる前に、自分の若いときの「輝いていた一瞬」を思い出すというストーリー。この宣伝文句に惹かれて観た。
主人公(亡くなりそうなおばあちゃん)は、若いとき歌手をめざしていた。酒場で歌っていたときに、伴奏の「黒人の男」に「あー、もう私の人生は、過ちばっかりよ」とぐちをこぼす。(必ずこういうときの相手は、黒人の男だ。"Play it, Sam. Play 'As Time Goes By." )すると、その黒人のピアノ弾きが彼女に言うんです。

「いいや、そうじゃない。過ちは人生を豊かにしてくれるんだ」と。

この言葉には、価値観の切り返しがある。セラピーなら、NLPで言うところのリフレーミング。価値観が再定義されています。美しいシーンです。この黒人の言葉は、この映画全体のテーマの伏線になっている。バシャールも言っています。人間に「失敗」という事象は存在しない。ある出来事を、「失敗と定義する」人たち(私たち)がいるだけだ、と。有名なバシャールの「電車の例」と同じで、出来事自体には意味がなく、それに「意味」(この場合は「失敗」)を与えるのは、あなた自身、もっといえば、あなたの頭のなかのフィルター、定義、思い込み、ねばならない、であると言っているわけです。人生のなかで起きるさまざまな出来事は、もともとは中立ですから、その「コンテキスト」(文脈、意味)は一方向だけのものではなく、全方向に生み出されるはずのものであり、「コンテキストの多様性」があるはずじゃん、と言っているわけです。
この映画の役者の演技でいえば、主人公の現在役(死にそうなおばあちゃん)と若いとき役のふたりの役者はあまり目立たず、その主人公の親友の女性(今のおばあちゃん役はメリル・ストリープ)、その若いとき役はメリルの実娘メイミー・ガマー。そのメイミーの演技がめっちゃいい(お母さんのメリルより断然。そもそも昔からメリルのあのわざとらしさが好きじゃなかった・・・)。そのメイミーの演ずる女性の結婚する直前が描かれているんだけど、なんか、『このひとじゃなくてあっちのひとが私は好きなんだけど、でももう引き返せないし、このひとも支えてあげないと・・・』、というどっちつかずの「引き裂かれた感じ」がすっごくうまい。人生に、こういう瞬間はあるんだろうなと思わせる。一押ししたら壊れてしまいそうな薄いガラスのような部分と、でも、どっこい生きていくもんね、というたくましい二の腕のような部分とが共存している女性、という演技がすごい。
神さまは女性を「どっこい」にお作りになったんだなあ、とつくづく思う。どんなに男が社会的、表面的に活躍しているように見えても、その実、この世は女性こそが動かしているのだと、私は固く信じてやまない・・・。
そもそも映画はセラピーに近い芸術だが、もうひとつ、こんな名文句もあった。おばあちゃんになった友だち同士(そのうちひとりは、もうすぐあの世へ行くんですが)が交わす会話。

「ああ、あのときに私、別の選択をしていたら・・・」
「いいえ、私たちは、そのときになすべきことをしたのよ!!」

良質なセラピストは決して問題の答を自分からクライアントに言うことはありませんが、そこに認知が行くような誘導はすることがあります。だとすれば、この例はまさにそれ。セラピーのひとつの行き先を示しており、そのディスティネーションに向けて、セラピストは道行を構成することになります。
そう、私たちは常に、「いますべきことを、(淡々と) なしているのです」。なんというか、神さまが、「ほーら、あんた、そこで間違ちゃいなさい、そっちの方を選んじゃいなさい」と誘導しているかのようです。そして私たちは、まんまと、その神さまの言葉通り、将来に禍根を残すであろう方をわざわざ選んでしまったりするものなのです。しかし、それでいいんじゃないのお。いいんですよ。私は、人生は成功するためにある、とは、いまだに思えない。私たちは、そのときは、それをする必要があったんです。堂々と、怪しいクジを引きましょう。そしてそれが将来引き起こすかもしれない出来事は、人生のなかの「印象的な出来事」として引き受けながら。

喜多見 龍一


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