【2001年3月号】とりかえばや物語は、やさしくひとを再生させる。


2001年 3月号

とりかえばや物語は、
やさしくひとを再生させる。


たとえば、見ず知らずの老婆が、道端で今まさに息絶えようとしている。そこにあなたが通りすがる。まわりには誰もいない。今にも息絶えようとするその老婆は、最後の力をふりしぼってその息子へ孫へ、人生最後の伝言を伝えようとする。あなたは、老婆の生きてきた人生をなにも知らない。一言も聴きのがすまいと、あなたは老婆の話に全身の神経を集中する。その老婆が物語る、人生の最後の円を閉じようとする人間の最も真摯な物語。そのとき、「あなたは、老婆になってしまわないだろうか」。
ひとがひとに「深く感応する瞬間」。それは「相手と自分とが取り替わってしまう瞬間」である。
「いのちの電話」の相談窓口にあなたがいる。そこに電話がかかる。
『いま、わたし、手首を切ろうとしているんです』そこで一瞬たじろがぬ者があろうか。「どうしたんですか?」『いや、もう、いいんです・・・』「わたしに、話を聴かせてもらえませんか」『・・・あれは3年ほど前に・・・』こうして、あなたは、その人の人生の深い河へとズブズブと素足で入り込む。その生ぬるい泥水はあなたの身体の中へと流れ込み、あなたの寄って立つ位置は、あたたかい春の野のかげろうのように、その人の身体の中へ流れ込む。あなたは、その人となり、その人は、あなたとなる。
またひとは、森に凛と立つ樹木や、限りなくつづくたおやかな草原を肌で感じたとき、その樹木、その草原になりはしないだろうか。人生は、とりかえばや物語である。ひとは、ある日あるとき、なにかの拍子で出会ったもうひとりのひとや自然と、取り替わる。そのとき、世界はほんの少し生命を吹き込まれるかもしれない。繭は少し輝きをとりもどすかもしれない。世界に、ゆるやか だが力強い風が吹いてきて、世界はほのかな暖色に染まるかもしれない。
いのちの電話のベテラン相談員によると、『わたし、これから死にます』と言われたときの最悪の対応は、怖れとやり切れなさのあまり「無言」になることだという。そ して最良の対応は、「うん、それで、どうやって死ぬの?」だというのだ。なんたる断固とした意図! とにかく話を続けていくことで、水は、流れだす1ミリの可能性を残す。水は流れたいのだ。たった一滴の水が、細い糸となってあなたに流れることで、そこから、とりかえばや物語がはじまる、かもしれない。
わたしとあなたの、とりかえばや物語。きょうも世界のどこかで、だれかとだれかが、少し温度差のある水と水とを汲み交わす。それは、この地球上の生けるものだけが奏でることのできる、美しきロンドであり、わたしたちのDNAに太古から書き込まれている再生の物語である。
  喜多見 龍一


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