【2011年09月号】あなたの投げかけた「言葉」に「応じた未来」がやってくる。

言葉は「道具」。その使い方次第では、人も切れるし、おいしい料理も作れる。世界で、もっとも未来を変える可能性のあるもの、それは「言葉づかい」ともいえる。

私が個人的に楽しみにして出席した3日間の講座が先日終わった。白木孝二先生の「解決志向セラピー」(ブリーフ・セラピーともいう)の1日と、エリクソニアン催眠のヒレル・ザイトリンの2日間。このコンテンツは絶対面白い、という私の眼力は正しかった。私が「面白い」というときは、「それ以降、世界の見え方が変わる」または「日常にその考えが使える」ということを意味する。

解決志向セラピーは「催眠を使わない催眠」とも言え、後半の「催眠を使う催眠」とともに、受ける前は「ちょっとトリッキーなやり方をするセラピー」と思っていたが、さにあらず。極めてまっとうに真面目に、「言葉」でクライアントに働きかける手法だった。

ミルトン・エリクソンという天才がいて、ポリオ(小児麻痺)にかかって身体が動かなくなったこともあり、まるで深い相思相愛にある男女間のように、観察眼をただならぬほど高めた。たとえば相手の頸動脈の微妙な動きを観て脈拍を知り、呼吸のテンポやIN/OUT、顔の赤みから緊張や興奮を知ってその情報をセラピーに即使った。ふたりの講義ともに、 この3日間のポイントは整理すると、ふたつ。ひとつめ。クライアントは、じぶんで良い方向に変わろうとするチカラをすでに持っている。白木先生もヒレルさんもそうだったが、セラピスト側の関与は、なんというかクライアントと少し距離をおいたものであって(しかしラポールや信頼はしっかり醸成されている)、しかもあんまりしゃべらない。1時間のセッションでも何回か、短く質問するだけだ。相手が考え、相手が気づいていき、相手が1ミリ動く。セラピスト側ががんばって関わり続けることで得られる変化は続かないし、真のチカラが出ない。

ふたつめは、セラピーのかなりの部分が「言葉」を使ってなされるということ。でもそれはセラピーなんでしょ、私の日常とは関係ないわ、というのは大間違い。セラピーは、日常の先端にあって、そこで成立したスキルが日常に「降りてくる」のだ。しかも、その言葉を「解決」に向けて組み立てる。

かつて心理療法(フロイト派等)は「過去の原因」をさぐる旅だった。過去を掘って掘って掘りまくる。「彼はもう、7年間も私のクライアントです」って、もしもしー、もう少し早くできませんかー? となってしまうことも多かった。私たちは25年近くこのセラピーの世界を皆さんと探求しているが、つい最近までやはり「過去の原因」に行くことが多かった。そうすると時間がかかる、効果がすぐ出ない。アメリカでは保険会社がセラピーのお金を払っているので(保険の対象。日本ではそうなっていない)、10回、12回やっても効果がないのであれば、そのセラピストは即交代だ(白木先生談)。現在の主流は、過去の原因ではなくて「未来の解決」にしかフォーカスしない。セラピストが創る「言葉」も解決にしか言及しない。たとえば、セラピストは「あなたが、いまの状態から"少しよくなったな"と感じることがあるとしたら、それはどんな部分がどうなったときですか?」と。セラピスト側はあくまで「解決」にフォーカス。これは解決志向セラピーだけではなく、ザイトリンさんのセラピーデモや手法実演でも同じだった。クライアントに向けて話される言葉は、常に「解決」を向いている。もはやセラピーそのものが解決に向かっていると言っていい。ポジティブ・サイコロジーと呼ばれる最近の手法も、クライアントが「できること」「すでに持っているリソース」にはフォーカスするが、「できないこと」にも「その原因」にもフォーカスしない。

「解決」の方向を言葉に乗せる。「問題のほうにではなく、解決のほうに向かった言葉の組み立て」で語りかける。いままで何十年何百年セラピーの世界で「過去の問題」にフォーカスしつづけてきたことだろうか?

ということは日常生活のなかで私たちは何百年何千年、私たちは「過去の問題」にフォーカスしつづけ、そして何百年何千年解決を遅くしつづけてきたことだろうか。白木先生もザイトリンさんも、言葉遣いの方向はともに、明確に「解決」を向いていた。

私たちはそれがセラピーであろうと日常生活のパートナーとのパワーストラッグルであろうと、「問題」にフォーカスしても、1mmもよくなることはない。なぜうまくいかないかをいくら掘っても、そこから金銀が出てくることはなく、有毒な煙にまかれ、ぬかるみに足を取られるばかりで先に進めない。それを何年つづけるよりは、たとえばふたりで共通してできること、時間を共有できるたったひとつのことを見つけて実行したら、一瞬で解決したりするものなのだ。何年、原因さがしをしても解決からは遠ざかるばかり。これはコペルニクス的転回であって、どうしてもひとはまた地動説にもどりたがるものであり、クライアントも、そしてセラピストさえも「問題探しの地動説」に戻ろう戻ろうという力学が働いており、その呪縛から離れるためにも、言葉の仕組みをつかって、(言葉の例を入れる)、解説へといざなうのだ。

そしてその言葉を聴いた相手は、あなたの投げかけた言葉の構造(それが、ネガな前提が隠された花のトゲのように相手を刺すのか、それとも、相手にまったくネガなところにふれることなく、ポジな未来しか感じさせない気分のよいものであるのかによって、その相手が反作用としてあなたに返してくる「未来」にトゲが生えるのか、あるいは、やさしい冬の日のおひさまのように、やさしさに温まるものになるのかが、決まるのである。

喜多見 龍一


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