【2012年1月号】世界の二重構造「オモテとウラ」が人生に二方向の力学を生み出す。

先日、五月蠅い(うるさい)の語源を調べていて(うら・さし)、日本人の心の奥に沈んでいる「オモテ」と「ウラ」という独特の認知、「二重性」について知った。古語では、「オモテ」は顔、「ウラ」は心を意味する。オモテをあげる、や「うらやむ(羨む)」[ウラ(心)が病む状態]などの言葉に今も残っている(土居健郎著「表と裏」)。

異論もあるが、現し身(うつしみ・映し身。この次元の肉体)、現し世(うつしよ・映し世。現世)という言葉も、この、世界の二重性をよく表している。身体も世界もそのウラにあるものの「プロジェクション」であると。「オモテ」は「ウラ」を映す鏡であり、ウラがあってこそオモテが存在するという認知は、日本人の観察眼の鋭さを示している。最先端の量子物理学や最先端の宇宙観測でも、徐々にこの二重性は「科学」になろうとしている。

あなたが想像したこと、思いついたこと、怖れたことが現実として実現していくという実現化法則は非常に有名だが、それらはまさに、この「二重化された世界」から発する。世界は私たちが見たとおりではなく、見えないレイヤーによって構成されている。そのレイヤーは2層、7層、9層、21層、無数というひともいる。別層の世界がこの次元とあまりに違ったものだと私たちはそれらを認知できないわけで、層が何重にもなっていても不思議ではないが、ここでは身近な2層だけを扱う。

私たちが普通、「現実」と呼んでいる「世界A」とともに、少なくとも、縦横高さとリニアな時間が存在しない、思考・想像・感覚・感情などのもう一層、「世界B」が同時に存在する。世界Bは形のない世界で、夢のなかのように不定形だが、世界Aと密接につながっている。形のない世界Bが世界Aの「原因界」でもある。

世界Bの素材を使って世界Aが構築される。しかし世界AとBは実際は「相互交流」しているので、矢印は一方向だけではなく逆方向(A→B)にも働く。この「現実から想い」の方向性は、私たちの世界では「体験」と呼ばれている。そしてその体験が「思い込み」(または「信念」)を創るのだ。日本語では、「思い込み」という言葉のコノテーションにはネガティブが含まれる。ポジティブにいえば「信念」。英語のbeliefは両方の意味を含む。

この世界で私たちが日々体験する事柄は本来、中立だが、私たちの脳はそれらをアーカイブするときに、タグをつけないと収納できない。そのタグが「判断」であり、判断といっしょに体験が世界Bへと送られる。私たちの脳が、中立なままアーカイブできないのは、たぶんアーカイブを引き出す(思い出す)とき、ニュートラルでは引出しにくいからだろう。そのひもづけタグ(判断)は「感情」でできているので、私たちはその体験に強くドリブンされる。感情が私たちを常に一定の行動へとせきたてる。それらが自分の人生に役立つものであれば、ポジティブな感情にひもづけられた「信念」となり、悩ませるものであれば「思い込み」となって、世界Bにアーカイブされる。

そして世界Bで「思い込み」(あるいは「信念」)となった素材は、世界Aでなにかのイベントが起きたときに(本来、中立)、そのイベントへのレスポンス(私たちの反応)を方向づける。あるイベントに「恐怖」という思い込みタグが付けられていれば、私たちはそれが起きたときに、その場から全力で逃げることになる。それは「自動反応」であって、私たちはその瞬間「なにも考えていない」ところがポイントだ。何度か繰り返すと「恐怖タグ」はさらに強化され、そのひとの人生を長く支配することになる。そこに意識のフォーカスをあてて、そのタグを溶かしていくまでは。

判断タグが「信念」であった場合もまた、自動化される。たとえば、小さな成功体験。これがあるイベントにひもづけられてタグになった場合は、比較的「意識しながら」このタグを育てることになる。たくさんの小さなタグ(成功信念)が集積されるとそれらは自動化されるが、そこまで行く間のプロセスでは自覚的にその「成功タグ」を意識化しなければならない(育てる期間)。この成功タグが集積されてくると、徐々に「わたしにはなんでもできないことはない」という方向に向かって、セルフ・エスティームは上昇を続ける。世間の言葉ではこれを「自信がつく」とも言う。

この世界のふたつのレイヤーの相互作用を、どちらの視点でまわしつづけるかによって、人生に陰影が生まれる。「怖れタグ」か、はたまた「成功タグ」か。しかし、怖れタグが悪いわけではない。火や身体的危険に対して、怖れタグがついていなければ私たちは生き延びることはできなかった。それに、怖れタグが一生終わらないわけでもなく、人生のある期間の怖れタグが、そのひとの人生に陰影を生じさせ、それをもって後ほどそのひとは、内部セラピーとしての芸術表現を表出するという例は、この世界に枚挙のいとまがない。

なにが幸いするかは、人生が終わってみないと分からない。私自身は、このようにネガなタグとポジなタグの間を行ったり来たりする人間を、いとおしいと思う。人生の陰影は、人生の宝である。それは、ひとを豊かにしてくれる。人生は成功するためだけにあるわけではない。

喜多見 龍一


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