【2002年7月号】観念しろ、それは勘違いだ・・・

2002年 7月号

観念しろ、それは勘違いだ・・・

 私たちは、なにかとんでもない勘違いをすることがある。自分を助けてくれようとしている人間を疑ったり、また陥れようとしている人間に激しく魅せられたり。そのときはそう信じきっているが、あとで冷静になってみると、突然山中で霧が晴れたかのように、ものごとがはっきりと見えてきたりする。
ポジティブな意味での「信念」も、ネガティブな意味での「観念」も英語では共にbeliefであって、同じだ。確かに信じているのには、違いはない。それが吉と出るか凶と出るかの違いがあるだけで。大がかりなマジシャンがビルを消したりするのを見ると、まあ、よくここまできれいに勘違いさせてくれた、だましてくれたと、ほとんど感動する。観念が私たちをだましてくれる見事さは、まさに拍手喝采ものである。
世界は、そもそも一定ではない。世界を本当に「観る」ことができれば、ドン・ファン・マトゥスでなくても、世界を意図的に勘違いさせることも可能かもしれない。
認知療法(Cognitive Therapy)というセラピーの基本テクニックがあって、それは、クライアントの中にある「観念」を巧みな会話誘導から「おお、私はそう思ってたか」とまず認識させ(世界を観る)、それが「別のふうにも見えるかもしんない」と思わせるところまでもっていく(世界を移動する)。言葉で書くと、なんじゃいそんなことかいと思うけれど、本人は腹の底からAはBだと思い込んでいるのであって、それがAはCであるかもしれないという認識が「自分の中から」生まれること自体、驚天動地のことなのである。クライアントが「みずから発見する」というプロセスが一番大事なのであって、へたなセラピストではバレバレの誘導尋問になってしまう。つまりセラピストこそが「観念の餌食」になってしまう危険を孕んでいるのだ。
最近話題の概念「セルフ・エスティーム」を高めるためには、結局この「観念」という眼鏡で歪んだ世界をまず認め(自分は眼鏡をかけていることを「知り」)、その後、その眼鏡をはずすわけだ。しかしここで残念なことは、眼鏡をしていない人間がひとりも存在しない、という事実だ。なぜなら眼鏡をかけていないと地球の重力から自由になってしまうので、神様になっちゃうからだ・・・。
「観念」の前駆物質、根本原因はなんであるか。児童体験などという話もあるが、根本はそうではない。人に「観念」が生ずる根本原因は「魂の刻印」であり、生前の「魂のアグリーメント」にある。結局、私はここに穴をあけて次の人生はやってみるんだもんねー、という心意気(鋳型) である。つまりそれは、ここに穴をという「神の意図」を、セラピーという「神の技術」で修復しようとする試みで、一見ばかげて見えるかもしれない。人生とは子供の砂場遊びのようだ、ともいえる。砂の城を造っては壊し、また別の城を造っては壊す。つまり本当に大切なものはその「プロセスの中」にしか埋まっていないんだよーと神はささやいているわけである。 お金が一銭もなくても、友達がひとりもいなくても、社会との交流が一切なくてもセルフ・エスティームがまったく下がらない、という人がいるとすれば、それは自分を刺してくる観念がほとんどないに等しい人であって、それをひとは、悟りに近づいた人と呼ぶのかもしれない。そのようなコンテキストでセラピーというものを考えたとき、それは「悟り」の方法を「治癒」の方法に応用したものなのだ、ということがわかる。
  喜多見 龍一


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