【2003年5月号】ちっちゃな幸せ

2003年 5月号

ちっちゃな幸せ

 私たちはほんのちょっとしたことで幸せになったりする。それは決して神さまがツエを振り白髪振り乱して「ジャジャジャジャーン! どうだあ、こんな幸せみたことないだろうッ! まいったかあ!」というよーな大仰な幸せでなくて、ほんとにしょーもない、となりのひとに声に出して説明したら「お前どっかおかしいんちゃう?」と言われそうな幸せのことである。3日間便秘していたのが今朝ほどめでたくとか、ちょっと好ましく思っているひとと社のエレベーターの中で一瞬一緒だったとか、休みの日に突然思いついて自転車でとなり街まで行くことにしたとか、街を歩いていて気まぐれで宝くじを一枚買ったとか、旅の宿特集の雑誌を買ってお気に入りカフェのふかふか椅子に座るんだこれからとか、たまたまきょうはかみさんがこどもを連れて実家に行ってしまったどう過ごそうかとか、会社に行くために朝家の外にでたら空が青空だったとか・・・。もうほんとになんでもいい。蝶が羽根をフワッと動かすだけで私たちは幸せになれるのだ。そしてそういうことの連続が、私たちの人生を前に進めてくれているような気がする。私たちがあすも健康で生きられるには、こういうことの連続が必要であるような気がする。
よく考えてみるとしかし、本当のところは、私たちはあす、自衛隊のジェット機が自宅に墜落して死んじゃうかもしれない。でも私たちの身体はあしたを激しく心配するストレスに耐えられないようにできている。動物園のゴリラは除くが、「あしたのことで悩んで、いたたまれないゴリラ」は見たことがない。また逆に「あしたの希望に胸をふくらませるゴリラ」っていうのも見たことがないだろう。ということは、私たち人間だけに「ちいさな幸せ」が必要なんだ(これはゴリラが幸せでないということを意味しない)。私たちが乗った船はあすも沈まないばかりか、かぐわしい果物をたわわに実らせ美女がワンサカいる島に次々と寄港する、ということをその「ちっちゃな幸せ」という「しるし」を日々発見することで確認し、かつ創り出しているのだ。向田邦子の小説のような、この、ちっちゃな幸せをどれだけ多く自分の目の前に日々見つけられるか。
小さな幸せを「幸せ」として認識するのは実はきわめて高度な認識であって、神からの「しるし」を感じ取る能力とほぼ等しい。シンクロニシティなどが起こるときの「しるし」を感じ取る能力も一緒だ。シンボルを読むのに近い。それは、かすかなしるし。かすかだから見逃すひともでる。しかし、こういうのも私は訓練で向上する能力のひとつと思うので、慣れてくると、オッこれも、あ、それもそうじゃないかーまったくー、という、なかばノーテンキに幸せな状態へと突入するように思う。つまり小さな幸せは、神さまが、あなたにはこれだけの幸せを350 個あげよう、あんたは性格悪いから20個だけね、というように絶対量が割り当てられるものではなく、あなた自身が、均等に割り振られている幸せを「いかに多く見つけられるか」で、人生は芳醇な蜜壺を独り占めした蝶のように幸せ、と思えるか、鏡に世界一の幸せ者を聞いて呪う老婆のように不幸になるかの別れ道となるのです・・・。
  喜多見 龍一


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