【2004年1月号】

2004年 1月号

正月は、こたつに入って
「魂の鋳型」をさぐる。


 魂の鋳型とは現人生の根本的青写真。それをさぐるには、まず自分の「強いこだわり」を見つけねばならない。たとえばわたしは、昔から「自己犠牲」、それもとってもはげしいやつが好きで、自分が死んだことで他のひとが生きられる、というよーなパターンに出くわすと、涙ちょちょぎれ鼻水ビービーで感動した。齢を重ね、これもまた「自分に開いた穴」のひとつなのだ、とも気づいたが、このモチーフにいたく感動するのはいまも変わらない。飛行機が厳寒の川につっこんで、奇跡的に生き延びた乗客のひとりが、生命の限界をとうにすぎた時間にやってきた救助隊の浮輪を他のひとにゆずる(実話。そのおじさんは沈んで亡くなり、浮輪を得た女性は助かった)。自己犠牲は美しい。それにラブが根底に流れている。自己犠牲というモチーフは民族の境界を越えた人類という種の深くて古い元型に刻み込まれたなにものか、である。
「ひとはひとを助けたい」。これはわたしが知っている定理のなかでも、もっとも起源が古いもののひとつである。タイタニックが沈んでいくときに演奏をやめなかった楽隊は特別のひとだったわけではない。押し迫る異常な生命の危機のなかで、自分のなかの古い古いボタンが太い記憶の指で押されるのだ。そのボタンが押された瞬間、生存欲求をはるかに超える上位概念の大波がそのひとを覆う。思うに、このモチーフの起源はヒトがヒトとなったときの成立のプロセスにまでさかのぼるような気がする。
むかしむかし、自己啓発セミナー全盛の頃、ライフボートという実習があった。救難ボートの定員は参加者数より極端に少ない。参加者全員が、だれが生き残ってだれが死ぬのか投票しあう。あまりに過酷な設定を感情を入れてやるので、心に傷を負うケースもあり、現在はセミナー的には否定されているが。たまたま私は生き残る方になって、死んでいく仲間全員から遺言を託された(うー・・・)。その時には、死ぬ方も生きる方もダーダーに泣いているのだけれど。ゲシュタルトなセミナーデザインとしては大変よくできているが、人生を生き延びてきた今にしておもえば、生き残っても、そこで死んでも、どっちゃもいっしょやねん、ともまた思える。
いくつになっても、正月には特別な空気がある。急な積雪ですべてが純白に包まれ、あー、これでまたゼロからやり直していいんだと感じるあの独特な感覚に近い。そうした特別の時間に、今年の貯金目標額ではなしに、自分の魂の鋳型について思いめぐらすのもいいかもしれない。あなたの日常行動パターンのなかに答えは隠されている。そこから鋳型を掘りあてることができれば、それは今回の生の強力な機関車となり、目的地へ向かう確かな鉄路となるに違いない。
  喜多見 龍一


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