【2013年07月号】ブータンのような「さりげない幸せ」の勧め。

「幸せ」というものは、きわめて相対的なものであって、あるひとにとっての「幸せ」が隣のひとの「幸せ」ではない可能性もある。しかも、ほんのちょっとしたことが「幸せ」につながったり、つながらなかったりする。

今日は腰が痛かったのか痛くなかったのか、子供の成績が上がったのか下がったのか、料理がうまくできたのかどうか、服の組み合わせが決まったのか決まらなかったのか、入った店の店員の対応が良かったのか悪かったのか、晴天だったのか曇天だったのか、お金が入ってきたのか出て行ったのか、頭のなかの未来が光っていたのか陰っていたのか・・・。

こういった、いわば「まあ、どっちでもええんちゃう?」というよーな瑣末なことでもなお、あなたの今の「幸せ」度を左右する。

日本国憲法の第9条に恒久平和が規定されているように、ブータンの憲法第9条の各項には、ブータンという国が「国民の幸福を求める国」であると明確に規定されている。その幸福度は国民への聞き取り調査で計測されており(96%が幸福)、その幸福の具体的対象エリアは多岐にわたる。コミュニティ、自然環境、平和、健康などに加えてもっとも重視しているのが「個人としての時間」だという。「時間持ち」が幸福度が高いと。

人間は常に自分に「欠けているもの」を求める傾向がある。お金持ちも以前は「時間持ち」にあこがれるところがあったが、最近はバランスをとれるようになったのかもしれない。しかしそれでもなお、自分に欠けているところを自分が感じる限り、人はなにかの「幸せ」を手に入れたい、と願うのだ。

自然だけはいくらでもあるが、産業資源にとぼしいブータンでは、このGNH、国民総幸福度という尺度で社会活動、産業活動はその方向性を決められる。これをやったらいくらお金が入ってくるかではなく。たとえば、ツルの飛来する土地に電線を敷設する案件は、自然環境保護の観点から地下敷設にするというように。

ブータンの国民総幸福度のなかに「お金」という尺度は入っていない。

最近の米国の経済学者の研究では、貧しい人は少ないお金で幸せを感じ、金持ちはもっと大きなお金の量で幸せを感じるという差はあるものの、どちらもお金が増えると幸せを感じ、なおかつ、「ここまでお金が増えたら、もうそれ以上は望まない」という絶対値は、ともに存在しないと。つまり、お金の幸福度に関しては、「かーぎーりないものー、それは欲望ー」なんだと言っている。

まあ、特に学者が調べるまでもないですが。お金に幸せを感じるのは、別に悪いとは思いませんが、それに「果てがない」「自分個人の基準がない」というところに問題があるのかもしれない。

ブータンは、ネパールの東、バングラデッシュの北にあって、ヒマラヤの近くの国。人口は73万人しかいない。軍隊はとってもしょぼい。ほとんど重火器はもっていない。

近年のミトコンドリア研究によると、日本人のルーツとして、中央アジア、ブータンのあたりもあがっている。日本人は中国人や韓国人などとは異なる染色体の型をもっているようだ。論理性は高くなく、攻撃性もおしなべて低く(煽動はされやすいが)、静かな感情型で共同体にいることをよしとする傾向が強い。 そう、日本人はブータンなんだ。ブータン観光に行く外国人は、実は日本人がもっとも多いという事実。行くと、なんかとても近しいものを感じて、「おー、なごむー」となるらしい。日本人は海外で田んぼを観ただけで、なんかゴロニャーンとなってしまう。

荒川区では区長がブータンにならって、GAH(荒川総幸福度)という尺度をつくって区のテーゼにしようとしている。日本人がブータンの「国民総幸福度」のコンセプトを聞いたときに、なぜかとっても日本人のからだに馴染むと感じます。

世界がいま、どうやら経済では皆が幸福にはならないんだね、ということが分かってきて、じゃあ次のコンセプトはなに?と考えているときに、このヒマラヤの小国の考え抜いた哲学、「これでいいんじゃないのお?」が日本に、世界に大きなインパクトを与えようとしている。

ふとんやトーフと同じように、「もったいない」が、そのまま国際語として通じようとしている日本人のなかに、元々持っていたスロー・ライフっぽさが、このブータンの幸福尺度ととっても相性がいいんじゃないかと思う。

まあ、30代40代のバリバリ、イケイケの時代には希求型の幸せを追求してみるのもいいと思う。でもわたし思うんです。人間は常に「もっとチカラの抜けた、ゆるい幸せのバックアップ」をもうひとつ別に持っているべきだと。いわばブータン的な「静かな幸せ」を。

だって、自分がいまガンガンに追求していた「幸せ」君に、なにかの理由で「いまはあんたのとこへ、行かないよー」と言われたときにも、人生にガックシくるんじゃなくて、「別にいいもーん」「だって、私にはもう一個、別にしぶーい幸せ持ってるんだもんねー」と懐の中から取り出して、こんどはそっちをいつくしむ、というのがいいんじゃないかと。ひとつの幸せにこだわる必要はありません。幸せの元は人生にはいくつもある。

翁童論(人は歳をとると赤ちゃんに戻っていく、という人生円環理論)を持ち出すまでもなく、人生は年輪を重ねるごとに、ブータン型の幸せが、しみじみといいよなーと思えてくるものです。

喜多見 龍一


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