【2004年5月号】行くとき、来るとき。 ひとは心を動かされる。

2004年 5月号

行くとき、来るとき
ひとは心を動かされる。


 わたくしごとで恐縮だが、3年前の父につづいて、今年のさくらが咲くころに母を亡くした。薄紅色の無数のはなびらが舞うなかを、魂はふるさとに帰っていった。
以前も書いたかもしれないが、わたしは生まれてこのかた、親しいひとが亡くなる瞬間にそこに居られたことがなかった。しかし今回、はじめて逝くひとを看取ることができた。それは母からの最後の贈り物だったかもしれない。
その日の昼、前世療法を教えているカエタノさんと昼食をとっていた。きのうの早朝に見た母の夢の話になった。わたしはそもそも、あまり明確な符合やあからさまな霊的体験というものをもったことがないのだった。母の夢はいままでほとんど見たことがない。ここ数週間、家と実家の間を往復していたせいもあるが、なにかすると十数年ぶりに母の夢を見たかもしれない。夢のなかでわたしはハサミを探している。おふくろに「ねえ、ハサミない?」と聞く。モンペをはいた母が、ハサミを探してもってきてくれる。わたしは、感情にかられて母のことを抱きしめる。しかしその身体は小枝のようにか細くて、『あー、こんなにやせちゃって・・・』と思うのだった。
お昼を食べながら、カエタノはこの夢の話を聴いて、なにも質問せず、ただ泣いてくれた。ハサミっていうのが、なんか悲しいよね・・・。おふくろは、あきらかに、向こうに行くことを「決めていた」ように思う。身体が不如意になってからは、「シャーっとおしっこをしたいなあ」と言われるのが悲しかった。
カエタノとおいしい中近東風ランチを食べ終わって外に出ると、さくらが満開だった。やわらかい日差しとやさしい風が吹いて、ふたりで言い合った。「It's a good day to die! (死ぬには、いい日だね)」。
そしてその日の夜遅く、母は逝った。家族全員に看取られながら、孫は手をにぎり、兄嫁は腰をさすり、そしてわたしは髪をなでながら、薄紙を一枚ずつはがすように、呼吸の間隔は長くなり、旅立っていった。イキが止まるその数十秒手前からそこにいる全員には、その瞬間がまさに来たことがありありと共有された。わたし自身は、呼吸が徐々にあらくなって、まるでブリージングをしているような状態になった。その感覚はなんといったらいいのだろう。ちょっと不謹慎なのだけれど、それは「感動した」としか言えない、なにものかだった。過酸素状態で頭がボーッとしたわたしは、そのとき心のなかで、『あー、この感じは、いつか同じようなものを体験したよなー。なんだっけ、あれは・・・』と思って、思い出した。それはこども達が生まれるとき、同じく病室に立ち会って、『おおー、からだの中からもうひとつの命が出てくるんだあ・・・。こんにちわー、よくきたねえ・・・』と思ったあの瞬間と同じものだった。
ひとがこっちからあっちへ行くとき、そして、あっちからこっちへ来るとき。ともに、それは心振るわされる体験だった。なぜか世界がその裂け目をかいま見せるとき、ひとは心を動かされる。それは多分、あまりに懐かしい自分の真のふるさとを、ほんの一瞬かいま見るせいではないか、と思うのだ・・・。
  喜多見 龍一


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