【2014年1月号】さとりは、まばたきする瞬間に世界を変える。 しかし世界そのものは、使用前使用後でまったく変わっていないのだ。

さとりが、来ている。時代がさとりを欲しているからか。考え方は古くからあったが、その語感には誤解もあった。長いあごひげを生やした老師が、山奥で過酷な修行に何十年も耐えて初めてたどり着く極めて稀な境地と。「どっひゃーん、あのひと、さとっちゃって向こう側に行っちゃったんだって。あれあれ」みたいな。

さとりは動物でいえば「草を食むヤギ」か。顔けっこう似てるし。あご髭もある。ヤギは近年見直されていて、お乳は出すわ、近所の雑草はモリモリ食べてくれるわ、ウンチはコロコロ集めやすいわ。たいしたやっちゃ、ヤギちゃん素敵!! ということになった。

「ヤギ導師、悟りとはなんでしょうか?」。「うーん、草を食べることだって言ったっしょ…」てなもんだ。悟りはもともと「軽い」ものだったが、誤解がそれを重くしてきた。

私の世代では、禅宗やインドヨガや道教の周辺にさとりはあった。東洋的コンテキスト。でも西洋人だってさとるのであって、実践性や応用性に優れた西洋人は、まるで器用な日本人のように、それを近代的心理やセラピー、生活のなかに再位置づけして東洋に逆輸出。そうしたこともあってか私たちは、別の視点からも理解を深めたのかもしれない。 西洋を通過したからか、時代の風が吹いたからか、悟りはよりダウン・トゥー・アースで気軽な、あるいは身軽なものになった。今までの誤解という重力から解き放たれて。

さとりとは、「重要な屁理屈」であり、「視点の逆転」であり、「意味の崩壊」であり、「ルビンの壺」であり、「超速度の気づき」であり、1秒あれば世界そのものを根本から変えうる。たとえ世界そのものがなにも変わらなくても、だ。なぜなら、それは「認知」であるから。世界は瞬間的にひっくり返されて、別の顔をのぞかせる。「ありゃー、こんな顔だったん?!!」と。セラピーでいえば、今一番効くとも言われる「認知行動療法」に近い。

セラピストの仮説に基づく誘導もあって、クライアントは「アーハーッ!!(AはZだったのおー!!)」と気づく。さとりは深い気づきであり、世界の認知はそれ以降まったく変わる。これは、自分のエネルギーセンターが開いていって、アナハタ(胸のチャクラ)まで至ると、それ以降、下には下がらないのに近い。

しかし、さとりという認知を得たとしても、二度と「そうじゃない状態」に行かないわけじゃない。行きたければ自由に行ける。けど、戻ってくるのも簡単な、スカスカの状態になるのね、きっと。

さとりは「修行」とは関係ない。特別なことは必要ない。なぜって、フツーの人生があれば充分すぎるほど充分だから。だいたいこの次元自体がそのためにあるんだから、なんで別のものが必要なの?という感じ。

また、人生に不自由があればあるほど行き着きやすい、不幸なほど、貧乏なほど簡単ですねん、というのもあながち嘘ではない。「私の人生はこんなに大変なんです。あれもできません、これも不自由です、お金もありません」「おー、それはベリー・ナイスですねえ。すっばらしい!! そのままやりつづけてねー」と、そういうものだ(幸せだと行き着けない、とは言っていない)。

エンターテイメント産業といえば、今はゲームや、関東ならディズニーランド、関西ならユニバーサルスタジオかもしれないが、私たちの人生において、なにが楽しいって、この「認知のひっくり返し」ほど楽しいもの、ワクワクするものが他にあるだろうか。自己成長自体がエンターテイメントとして非常に上質なものだが、いわんや、さとりにおいておや。これほどエキサイティングな瞬間はない。

あなたの隣にいるひとが、さとってしまったあなたを見たら、「なんだ、ぜんぜんこいつ変わってないじゃん」と思うかもしれないが、その実、あなたの内面で起きている変化はジャイガンティック(巨大)である。

それは驚天動地の喜び、あじゃぱーな体験ではあるが、だからといって、それほど特異な、めったにやってこない体験というわけでも、ない。

それはあなたが日曜の遅い昼に、ゆっくりとぬるいお湯につかっているとき突然やってくるかもしれず、会社に向かって並木の木漏れ日のなかを歩いているとき突如やってくるかもしれない。あるいは逆に、万事休す、もうこれで終わったか、とすべてを手放した瞬間にやってくるかもしれない。いずれにせよ、暗雲を割って突然射してくるお日さまのように前ぶれなくやってくる。しかしそれでもなお、それはそんなに特別なことじゃなく、私たちの人生で起こるべくして起こる、比較的起きうる瞬間なんだと思う。

それが比較的起こりうる認知であるならば、私たちの人生は、まだまだ楽しめる、ってえことになります。

喜多見 龍一


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