【2004年9月号】ひとを助けることは、自分を助けることである。

2004年 9月号

ひとを助けることは、
自分を助けることである。


 たとえばここに、登校拒否の中学生がいて、家族はもちろん、だれが接してもコミュニケーションがとれず、本人は鬱の海に沈み、なにをやってもその深い穴から抜け出せない、とする。ところがある時この女の子は、ひょんなきっかけで老人介護施設のおじいちゃん、おばあちゃんの世話をすることになる。最初はいやいやなのだが、続けると意外にリアルな皮膚感覚の満足感もあるのがわかる。足しげくかようようになって、はたしてそこで奇跡が起こる。深いキズがほんの少しずつ癒えていく「回復の物語」という奇跡が。
彼女は徐々にじぶんを取り戻していく。どんなやさしい言葉、どんな思いやりあるアプローチも溶かせなかったぶ厚いカラのなかに閉じこもっていた彼女は、まるで薄皮を一枚一枚はぐようにして、自分を再構築しはじめる。そこに、いったいどんな力学が働いているのだろう。なにが彼女を暗闇から光の世界に送り出したのか。
ひとつの要素は「奉仕」かもしれない。「ひとを助けたい」という欲求は、たましいの次元にまでさかのぼる原初的欲求である。それが叶わないと、傷つきさえするような。
しかも面白いのは、彼女の「回復の森」は学校にもなく、友人にもなく、家族にもなく、原因とはまったく無関係の場所にあったことだ。図式でいうと、Aという原因の回復は、まったく関連のないBという場所にある、ということになる。そして、もっとも助けが必要と思われるひとが、あろうことか、だれかほかのひとを助けるのだ。この「逆転」に神秘のキーがあるように思われる。
一般的に、難問が解決するときは、解決の軸は、いつも「別の系」にあるものだ。そしてその「原因」と「回復」の二物の間には、量子的飛躍がある。まったく関係のないものに見えて、実は密接な次元のヒモでつながっているハイパーリンクのような関係性。
「真に助けが必要なひと」と「助けが必要なひとを助けるひと」とは「同じものの別の名前」なのだ。
こうした力学は、意図的にセラピーやその周辺で処方されている。たとえばある障害などに苦しんでいるひとに、まったく別の弱者を助ける道筋をつくっておく、というふうに。
どんなに擦り切れたぞうきんのように見えたとしても、そんなひとにも回復の道は残されている。別のひとを助けられるだけの驚異的な底力を秘めているのだから。
しかしなぜ、この世界では、ひとを助けることが自分を助けることになるのか? その根本原理はなんだ?
宇宙の奥深くからその答えがかすかに響いてくる。その答えは・・・その答えは・・・ひとは・・・じぶん・・・である、から・・・。ひとは、じぶんであるから。
回復の物語は、宇宙の原初にもどったときに、可能になる。
  喜多見 龍一


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