【2005年3月号】私の生きているうちに起こるか?意識とモノとの「スーパー統合」

2005年 3月号

 私の生きているうちに起こるか?
意識とモノとの「スーパー統合」


  昨年末、わたしはバンクーバーのホテルにいて、前に進まない自転車をこいでいた。自転車の前にはテレビがついていて、なにやら科学番組をやっている。有酸素運動をしながらクォンタム・フィジックス(量子力学)を英語で聴くという体験は、わたしのアタマを深い催眠状態、あるいは「静謐な興奮」に誘導した。さまざまなメタファーやイメージが自由に拡がりはじめる。
最先端の物理の世界でも、いまだ世界は単一の法則で記述できていない。つまり、惑星間のような可視な世界の法則(相対性理論)と、素粒子のような微細で不可視な世界の法則(量子力学)には矛盾があると。繰り返し登場する世界の名だたる物理学者や数学者。彼らははみな、量子力学の不可思議な世界がどう世界に貢献できるかを語っている(わけではないのだが、結果的に・・・)。この世界が始まる前(ビッグバン以前の、世界がたった一粒の種だったとき)にひとつだった力は、爆発の直後に4種に分化。強い順にいうと「強い力」(原子核のなかのクォークをくっつけている力)、「電磁力」(電荷をもったものの間の力)、「弱い力」(原子が崩壊するときの力、つまり原子爆弾の力)、「重力」(わたしたちの感覚に反し、重力は実はかなり小さい力だ)。強い力から弱い力までは統合できたが、最後の重力がクセモノで、この4番目の力がいまだ統合できていない。超ヒモ理論や膜理論が有望といわれているが、まだ語りきっていない。そして重力が最後まで統合できない、というのが面白い。言葉のメタファーとしても・・・。
世界は、始まったときから、バラバラに分裂した部品を拾い集めて統合する方向に動いている。世界の歴史は、統合の歴史である。いまもその「統合の歴史」(自分たちの元の分身を、おっ、こっちにも、あっちもあった、と拾い集める作業)は進行中であるが、世界に飛躍的な影響をおよぼす統合がある。いわば「スーパー統合」だ。それは「モノと意識の統合」。自転車をこぎながら、宇宙から素粒子までを記述するたったひとつの法則探しを、わたしはどう聞いたかというと、その二つの世界の統合、イコール、モノと意識の統合、と聞いて興奮した。
重力はわたしたちをこの次元、この世界に定着させ、引き止めている力である。それが最後まで極大(物理世界)と極小(意識世界)のふたつの世界を統合させずにいる。 思考は物質化する。もちろん、意識は心理や感情というメディアが意識と物理世界の中間に介在してモノに影響を与えるというのは正しいのだが、むしろ「物質の最終構成単位が意識そのものである」としたほうが素直に納得できるような気がする。
わたしたちの物理的肉体を、よくサトル・ボディなどという。これはもちろん悟君とはなんの関係もなく、英語のsubtle「細かい」から来ている。精妙体などと訳される。アメリカ人がこう考えたわけではなく、紀元前数千年のインドあたりからずーっと、賢人が哲学しているときに、きっとこうに違いない、という直感があったものと思われる。物理世界は超微細な精妙次元(たぶん波もしくはアワ)からできており、さらに重要なことは、そのサトルな世界には「感情」「感覚」「思考」「知性」などすべてのヒューマン・ファクターがつまっている、とヒンドゥーの聖典バガバッドギーターは語っている。そこは「主観的な世界」であり、すべてが横つながりに一体化している。わたしの身体であろうと、あなたの身体であろうと、りんごであろうと、コンピュータであろうと、海であろうと。そのサトルな世界は、物理的なモノや肉体の世界の中に境界なく畳み込まれているから。
第二のアインシュタインが出てきて、この物理世界と意識世界のスーパー統合が起こるとき、世界は超絶的に進化する。そしてそのとき、わたしたちは「重力」からも解き放されているだろう。重力とは本質的になにかが完全に理解されて。
しかしバガバッドギーターの世界では、このサトルな世界、意識世界もまた、それ自身が「生命そのもの」なのではない、と語っている。もうひとつアートマンな世界があって、それがサトルな世界に生気を与えているのだという。うーん、そうか、そうかもしれない。なぜならば、この方が陰陽を統合するに、第三の世界が関係することで「創造の三角形」として機能するから、数式としてより美しい。真理は必ず、より美しい姿をしているはずだ。
  喜多見 龍一


 >  喜多見 龍一の読むワークショップ