【Kan.】作家・赤坂真理さんからの推薦メッセージ

クンルンネイゴン −途方なきもの

クンルンネイゴンって、何かとてもすごいみたい!!でも、どうすごいの!? そう思っている方は多いのではないでしょうか? そんな皆さんを代表して、クンルン歴六年の私が、師たちにインタヴューしました。 私自身がずっと、その問いを持っていたからです。

告白すると私は、クンルンネイゴン(以下クンルン)のあまりのシンプルさ、シンプルさゆえのつかみどころのなさから、クンルンが続かなくなることがありました。人は、たとえ小さくても、自分の頭で理解できることがほしいことがあります。私は小人物なので特に。クンルンが、シンプルすぎて大きすぎて、理解できなかったので、モチベーションが続かなくなることがあり、別の細分化された知識に惹かれたりすることがありました(それも大事なんですけど)。

でも不思議なことに、私の奥底はどうしてもクンルンを続けたいと願っていました。私は神秘主義や秘教と呼ばれるものが好きでいろいろかじってきましたが、クンルンに出会ってから、自己認識のベースは「クンルン・ピープル」なのです。どんなにさぼっていても自己認識は「クンルン・ピープル」(一人でもピープル!)。なぜか、クンルンが私の還っていくところと思い定めているのでした。わけもわからないのに。

だからそんなある日、不躾ながら師たちに単刀直入に訊いてしまったのです。

「クンルンて、つまりは一体、なんなんですか?」

するとkan.先生が、いつも変わらぬ世にも素敵な微笑で、ゆっくりこう答えてくれました。

「クンルンはー、エネルギーをエネルギーたらしめている何かです」

えっ!? 思わず訊き返しそうになりました。 森羅万象のエネルギーそのものです、と言われたなら、理解できる。 けれど、エネルギーをエネルギーたらしめる力、は、私の理解できる範疇をはるかに超えています。 次の瞬間、笑い出してしまいました。これは、私が理解できなくて当たり前だと。 「もう降参(surrender)、降参、考えても仕方がない。やるだけなんだね」と。

スピリチュアルな世界において、「手放す」(letting go)とか「ゆだねる」(surrender)といったことの重要性が説かれます。けれどそれが本当の意味で体感できた瞬間は、私には初めてでした。 そんなとき人は、笑っちゃうしかない。 真理というのは、冗談みたいにシンプルかもしれない。極大にして極小。それでいい。宇宙の真理が私の頭でわかるようなものじゃ面白くない。でも、私の頭も肉体も、いつかそれを受け取れる器として、できているはず。だったら私は、身ひとつで、この世界を遊び倒せるはず。

同時に私には、古の仙人などが使ったといわれる、信じられないような神通力(超能力)が、本当なのだと信じられました。たとえば壁抜けだとか、驚異的ヒーリング能力だとか、今で言うテレポーテーション、などを。 それらはこの「エネルギーをエネルギーをたらしめている力」の領域とかかわるうち、できちゃったことなのでしょう。あくまで副産物的に。私にはただ、そのような古の人々と共振できる可能性が自分にも開かれていることが、有り難く思えました。なぜなら、自分が一人ぼっちに思えるときでも、きっと決して決して、一人ではないはずだから。

時間にも空間にも先立つ領域があり、そこではすべてが同時に存在している。それを安全に体験する方法を、残してくれ、伝えてくれた人たちがいたのです。ありがたいことです。そして、「こうなりたい」と思える師と出会えることは、人の人生の力になります。 「師とは、自分もこうなれるという存在」とは、先代の師であるマックス先生の言葉です。「ああいう人たちがいるなら、世界はいいものだ」と思える人々がいること。そういう三人の師がいたことこそが、まずは、私を何度もクンルンネイゴンへと還らせた力でした。

クンルンは、不思議な行法と見るとやはりわかりにくいかもしれません。が、「クンルンの伝統がどういう人々をマスターに選んできたか」という観点から見ると、そのわくわくする膨大なエネルギーに触れられるのではないかと思います。師たちを見て「こういう人になりたい」と思ったからこそ、私はクンルンを続けたいと思いました。師にサイキック能力が、などという話ではなく、この現実において、私が会った中でまちがいなく、最も楽しそうに生きてる人たちだったからです。

「いつも、初めて、初めて、初めて。と世界に接すること」 クンルンではそういう態度を大事にします。 師匠たちは、長期サボっては再受講やフォローアップに行く私に、幾度でも初めて出会うように新鮮に、丁寧に教えてくださいました。由紀先生は「人が目の前で変わっていく現場に立ち会える、ということに毎回感動するし幸せに思う」のだと言います。それを聞いたとき、私が感動しました。 私にとっても、クンルンは何度でも新しい体験でした。 理解できないから、続かない。それはあくまで頭で考えたことでした。クンルンが、それほどの「何か」であるならば、それに対して私が考えてわかることも、努力でどうこうできることも、ありません。そして、そんな力とともに在るのであれば、私の悩みも葛藤も、狂気と自分でおそれるような自分さえ、その中にすっぽりと収まってしまうはずです。そう思ったとき、私はとても安心ができました。私が憂うべきことは何もない。憂うことがあったとしても、ただそう知っていればいい。 そのとき私には、「成さずして成す」というパラドックスめいて魅力的なクンルンの教えが、少しだけ、わかった気がしました。ワークショップではこんな魅力的な言葉が山のように出てきます。私は物書きなので素敵な言葉が大好物ですが、実は、語られる言葉がいちばん好きなワークショップは、クンルンネイゴンです。「言葉萌え」する人にもぜひ!おすすめです!

最後に、私も含めてこのサイトの読者の大半の母国語である日本語でクンルンネイゴンを教われることは、たいへん特権的なことだと、私は強調したい気持ちがします。同胞から日本語でクンルンを教わること、それは、クンルンの最も精妙な感覚が自分の血肉や遺伝子のどこかにあると知り、またそれを表現するのに適した言語を持っていると感じることに他ならないからです。日本人は今、自信を失っていると言われますが、「それ」は本当は、「ただ在る」。ただ気づけばいい。ただ、知ればいい。日本語を通してクンルンと出会うとき、私にあるのはそんな感覚です。ダイナミックでありつつ、不思議で大きな安堵感がある。やはり、憂うべきことは何もない、たとえ今の私が悩みだらけであっても。 師とクンルンは、そう語りかけてきます。

「三次元現実はただ味わうためにある」

師の一人が言いましたが、素敵でしょう?

赤坂真理(あかさか・まり)プロフィール

編集者兼ライターを経て、95年に小説家としてデビュー。『ヴァイブレータ』(講談社)で芥川賞候補に。同作は寺島しのぶと大森南朋主演で映画化され、多くの映画賞をとった。近著に、沖縄の光と影、神話に触発された『太陽の涙』(岩波書店・大島梢/画)など。現在、家族と戦後を描く長編「東京プリズン」を『文藝』に連載中。

  • クンルンネイゴンの詳細は こちらから