【2001年1月号】人間は、負けるために生まれてきた。


2001年 1月号

人間は、負けるために生まれてきた。

いやだ。こんな言われ方。サイテーである。なにも、そこまで言わなくてもいいじゃないか。もし神様が「絶対に負けられない人間」ってえのを作れたとする。これもいやだよ。なにやっても勝っちゃうの。小さな子供と走っていてもね、負けて「オー、早いねえ」とも言えない。力一杯走って勝っちゃうの。悲しい・・・。それは過保護に育てられた青年が冒険や危険からだけ醸成される上質な甘露をあらかじめ奪われるのに似ている。
人間には、いろんな負け方があるな。「理不尽な別離」「獰猛な力で引き裂かれる恋」「なぜか打ってしまった悪手」「強制された愛するものとの別れ」「突然発動する致命的な遺伝子」・・・。どうすることもできずに負けてしまった人間のまわりには、一種独特の「静寂」がある。日本人はその静寂が好きだ。アメリカ人が好きなのは、「勝利」「陽気さ」「健康」「太陽サンサン」「快活な軽口」。あくまで元気でいたい。しかしスタンフォードでMBAをとったカミソリのように切れる男だって、ガンにかかって余命3ヶ月だったら、同じだからね。それは圧倒的な力で、どんな人にも等しくやってくる。
「負け」は、特権的な恩恵である。
「あと3ヵ月の命です」といわれた35歳の男。負けた直後のショック状態は、変性意識に近い。もうこの次元にいない。小学校のときに遊んだ校庭の、大きな銀杏の樹から黄色い葉がカサカサ落ちてくる風景を思い出していたりする。あるいは頭のなかで、なんの関係もない音楽、たとえばアンパンマンのテーマとかが流れている。『いーいことだけ、いーいことだけ、思いーだーせー』っと。なんなんだあ?私の年代なら鉄腕アトムだ。『空を超えて―』っと。「あなたは余命3ヶ月です!」『空を超えてエ―〜〜ラララ〜〜』だからね。もう、なんだかわからない。なんの脈絡もない。「もしもし、ねえ、ちょいと」『うん?あーああ、ちょっとね、別のこと考えてた』なんて。3ヶ月後には、ほんとに死んじゃうんですよ。この人。
そうした有無を言わさぬ圧倒的な力による「負け」には、なにかしら超越的なところがあって、そこに神を見る人もいる。それによって、物語は、また別の展開に至ることができる。人生という物語は、そうやってバリエーションを増やしていき、神様は「ほいほい、そうですか、こんどはそういう物語が採れましたか、それはまたおいしそうな」などと言いながら、古びた壷のなかに、人間がえらい思いをしてつくりあげた、新しい物語をうれしそうにコレクションするのである。
  喜多見 龍一


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