【2001年9月号】創造力とは「物語力と感応力」

2001年 9月号

創造力とは「物語力と感応力」

 ビジネスの世界でも、個人の自己実現の世界でも、話は一緒なんだけれども、最後の最後まで突き詰めていくと、肝心要なところは「創造力」クリエティビティの世界に行ってしまうような気がする。古くからの友人の小阪さんというマーケティングのプロがいて、いま「ワクワク系」という新しい切り口のビジネスモデルを提唱して大繁盛している。彼の理論は正論かつ非常に実践的なものなので、集っている経営者や店主をみると、創造的であることを楽しんでいる人達が多い。彼らが生まれつき創造的だったのかは分からないが、結果的に、今なにをどう商うかという経営戦略的な大局と、顧客とのコミュニケーションなど表現面や細かなマーケティングがメチャ、クリエイティブ。この不景気下で結果(売上・利益)を驚くほど伸ばしていて、この理論の正しさを証明している。でも関わっている方の中には、既に提出された実例や指導されていることは理解できても、自分から新たな価値を創り出すのは苦手という方もいるように見受けられた。問題はそれ(創造力)が生来のものか、今からでも学習可能なものなか、という点だ。で、かたや「ソース」という自己実現用の生き方プログラムがあって、まあ、作者マイクのちょっとゴチャッペイな(多言でしつこい、の意。東北あたりの方言?)ところはあるんだけど、非常によくできたワクワク自己実現プログラム。これをやってくださっている皆さんがいらっしゃって、キチンと書いてある通りにやるんだけど、肝心な最後の最後は、自分自身の創造力に帰ってきてしまうわけで、見事に通過できる人もいるけれど足踏みする人もいる。ここでも「創造力は今から学習可能か」という命題にぶつかる。
私、ずっと昔は広告制作の世界にいて、この創造力ってえのは、なにか「ええかげん」なところからやってくる感覚があるのを知っている。広告制作に関わる者たちもまた、ええかげんな者たちなのであった。朝は定時には決して来ない。男たちは仕事に関係なく女の子の尻を持てる限りの能力と労力をつぎこんで追いかける。就業中であろうと突然映画を観に行っちゃったり、果ては小旅行に出かけてしまったりする。しかし屁理屈は立て板に水。要は昔の中国国営企業の人にイタリア人を足して二で割ったみたいな人種なのだ。でも、これがアイディア・ラッシュとかブレスト(胸じゃなくてブレーン・ストーミング。アイディア出しね)なんかすると、「おー、そうくるかあ」といい味だしたりする。会社もわかってて、こういう人種を、しゃあないけど飼っとくか、てなもんなんだな。なにが言いたかったかというと、「役立たず」なんです、基本的に。世の中の役に立たない。経済効率の世界に組み込まれてはいるんだけれど、この「創造力」の部分は、なんというか芸術の世界と同じで、直接世の中の役に立たないことが、役に立つ、という「無用の用」逆転した世界なのだ。この感覚は大切で、マニュアルがなかなか成立しにくい。でも、私はこの「ものごとの究極」を追求していくと常にぶつかる、世界のカギともいえる創造力というものに、最近とみに惹かれている。私のライフワークなのではないか、とさえ思える。その要諦は「物語力」と「感応力」(c喜多見)のふたつにある。このふたつの力を養う訓練法の一例をご披露。偶然出会った人物の生い立ちを想定する法。
病院の混んだ、しかしシンとした待合室で、突然カン高い場違いのキーで「私を観てえー」と叫ぶ、目の不自由以外は一見健康そうに見える車椅子の30代男性。長旅用重装備の実用チャリに派手なTシャツを着て、前のカゴに座敷ネコ種2匹を入れて幹線をツッ走る金髪のオジさん(頭のネジはゆるんでいないように見受けられた)。これらは私が夏の一日に実際に目撃した実在の人物であって、その人の属性、生きてきた歴史を「物語る」(推測する)に、失礼ながら最適の設問である。で、物語るにあたって、その人に成りきる、というプロセスが必要で、それはたとえばビジネスでいえば、想定顧客の心理や行動に「感応」する、自己同一化する、という局面である。なにか液体のようなものがグニューンと自分に入り込んでくる感じというか。だいたい「感応」するプロセスがうまくいっている時は「感情」が伴われるのでそれとわかる。
回答例。たとえばこうだ。前者の設問では、通信関連の上場企業のやり手係長だった切れ者の男がある日突然、治療法が確立されていない難病に冒されて、身体の動きと視力を暴力的に奪われる。職は実質的に失い、美しく賢い、将来の伴侶との仲はなんとなくギクシャクしたものになり、未来は突然暗転。老いた母に一挙手一投足を観てもらわなくてはなにもできないことを病歴の浅い自分はどうしても受け入れることができない。叫びたい気持ちでいっぱいの彼は、病院の診察で待たされるということがひとつのトリガーとなって、心の叫びを爆発させる。後者設問。53歳になったベテラン商社マンの彼は業績の悪化した会社から退職プログラムを提示され、迷いなくそれを選択。自分に自信のあった彼は、次の仕事を探す前に区切りをつける意味でも、今までできなかったことをやる自由を自分に許してやりたい。大学紛争も経験しているベビーブーマーの彼はどこかに自由への憧れを持ち続けている。そうだ旅行だ、しかも自分のスタイルで自由に7日間を過ごそう。健康を考えると移動は自転車がいいぞ。でもジジむさいのは嫌だ。髪は脱色して、派手なTシャツを着て、失われた30年を取り戻したい。知り合いが観てもまさかオレとは気づくまい。これは自由への旅立ちだ。でも、旅の途中でさびしい思いはしたくない。そうだ、座敷の猫を前の買い物カゴに入れちゃえ。こいでる時もニャアニャアいって退屈しないぞ。テント野宿なら、ペットお断りなんて言われることもないし、夏だから凍えることもない。こりゃあワクワクするぞお、と勇んで出かけたが都外に出たとたん雨にたたられ、猫が濡れ鼠になってあえなく帰宅途中・・・ってな感じで。
クリエーションというのは、「二物のぶつかり合い」である。その間の距離が近過ぎると想像の女神は微笑まない。では設問。クジラと出会って面白いものはなあに。海、背から出る水、逆三角の尾といった答えの採点は最低に低い。ガラスのクツ、コロッケ、10円玉といった答えの採点はかなり高い。これらの距離感がわからないと創造力は分からない。クジラとガラスのクツとコロッケと10円玉を使って物語ることもできる。なぜなら、そこに「緊張感」があるからだ。
こんなことしてなにになんだよお、というお言葉はお返し申し上げて、これがビジネスマーケティングの神髄部分であって、自己実現の最終工程の神髄なんです(断定)。こうしたこと以外はマニュアル化可能なのであって、定義化しにくい、いわく言い難い神の蜜が創造力なんである。私が通信大手の「ニフ」社の新入社員研修をやった時、創造力と表現力をテーマにした。これを許した人事部長も偉いが、この研修は人事研修グランプリというものがあるならば、金賞に値する出来ばえだった。参加者はメチャクチャ楽しんだし、実際の効果も(その後の仕事の中で)見えざる力となって大いに上がった。まあ、そのときは体験者は真意を理解しなかったと思うが、後で意味を回収したに違いない。私は2001年の今という時代に会社に真に必要なものは「創造力」だと確信している。個人の自己実現にも、だ。私が死ぬ前に、ぜひこれを実践的に体系化しておきたいなあ。
  喜多見 龍一


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