【2002年1月号】決めない、という生き方

2002年 1月号

決めない、という生き方

 未来が決められた道であると感じた時、人は虚無の暗渠に落ちる。それは人を激しく傷つけ、人生の登校拒否、人生の摂食障害にする。人生の早い時期には、まるでその道の先の先まで見えたかのように錯覚し、煩悶することがある。しかしながら、実際には、絵に描いたような平板がやってくることは稀である。必ず人生は、どこかで脱線し、寄り道し、ズレる。
逆説的だが「明日の不確定」ほど、人生を著しく活性化させ深めさせるものはない。この極端な例が、戦争や混乱でおびやかされた時だ。明日を決めない、という人生態度は、この平和な日本にあって、人生を意図的に活性化させ、可能性を大きく広げるためのメインエンジンといってもいい。決めない生き方は、人生を予定調和に終わらせない(つまり、楽しめる・・・)。
決めない生き方は、決めることの大切さとも矛盾しない。まず決めない、と決め、後に印を読んで決めるからだ。人生の最後まで決めない、と言っているわけでもない。それは修行僧の激しい生き方であって、一般的応用はむずかしいだろう。意図的に決めないわけで、無為や優柔不断とももちろん違う。では、決めないとなにがいいのか。

決めない、という生き方は、成功哲学にも使えるし、その人の魂が欲している生き方をするうえでも一番の近道になる。それには、まず「風」を読めないとならない。次にその風が「印」として運んできているものを「認知できる」必要がある。そしてその印からの情報で、不必要なものを捨て、欠けているものを補う。人生のほとんどのことは「タイミング」であったりするわけだが、そのタイミングも、印が教えてくれる。そして、ある時、「大きな印」と感じるものがきたら、間髪を入れずつかみ、決める。
この生き方は、常に力むこともなく、極めて自然体でリラックスしているところに特徴がある。リラックスしているとき、人間は最大限にその力を発揮する。それはまるで、武術の達人のように、みずからは動かないことであり、相手が動くことによってのみ、こちらの動きが発動される、という感じに近い。

この生き方ができるかどうかのクルーシャルなポイントは、結果に責任をとれるかどうかだ。この道を行く者は、それがもたらす結果にみずから責任を持たねばならない。人生という川の流れ自体に独自の意図があるとすれば、あなたはある時期、それに身を任せることになるからだ。どこに連れて行かれようと、結果を信じ、表面で起きていることには一喜一憂しないことが肝要である。
  喜多見 龍一


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