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1999年 7月号 「無常」という想いは、時に人を殺し、時に人を救い、時に人を赤子にする。 |
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過日、テレビニュースで、オウムの宣伝ビラが映し出された。そこには正確な言葉は忘れたが、要するに「無常の感覚はオウムに入れば救われる」的なことが書かれていたような。このビラはコピーライター的に考えると、うまい。 現代のこの社会で「無常観」というものは、ある種、社会の背後を席巻しており、潜在的・根源的なところでヒトを動かしている。それは時に、きょうは曇天だったというだけの理由で自分や人を殺す力であり、しかし時に人をどん底から反転させる観音としておわし、また時に人を生まれる前の無垢にまで洗い清める。私自身の「無常」の原風景は小学校二三年の時、まだ団地ができる前の郊外の町で、兄と連れ立って、麦畑で数人で隠れん坊をしていた時、ハッと気づくと、そこには誰もいなくて、背丈より高い麦穂が風にサワサワと鳴る音だけしか聞こえなくなった夏の夕暮れ。子供心に、それが無常という定義はなかったが、なにか、この世ならざるものを感知し、時は停止し、風景は版画になり、ブラックホールのような永遠の暗渠にからめとられ、身体は一瞬のうちに土星へとワープする。それは、どこか懐かしく甘い体験でもあり、限りなく恐ろしい体験でもあった。その名前のない、エンプティネスは、強烈な原体験として、私の心の芯に深く沈殿した。
無常というのは、なにか「母への慕情」に近いものがある。 |
喜多見 龍一 |