【2005年09月号】人生という分岐する川を「ワクワク」の刻印をうがたれた船が私たちを、あの懐かしい大海原へと導く。

2005年9月号

人生という分岐する川を
「ワクワク」の刻印をうがたれた船が
私たちを、あの懐かしい大海原へと導く。


 先日、ひさしぶりに小阪さん(裕司。ワクワク・マーケティングの)の講演を聴く機会があって、『ひとは、運ばれていく』というテーマだった。そう、次々と分岐する人生という川の流れを、あなただけのワクワクという、深い刻印のうがたれた船に乗って、私たちは懐かしい大海へと、不思議な力で運ばれていく。その海原は魂のふるさとであり、ワクワクの刻印がなぜ打たれたのかが、そこからならよく見渡せるのだ。
世にさまざまな成功法則、豊かさの法則、幸せの法則はあるが、この「ワクワク」ほど簡単明瞭で自分で観察しながら利用できる法則はない。あなた、使ってますか? 成功したい人も、成功したくない人(そういう人は存在する)は十全に「幸せ」になるのに、これほど使えるワザはない。バシャールの「ワクワク」から始まった私たちは、ここに何度も立ち返ってモノを考えるし、皆様にも何度もお伝えしている。あれからもう18年もたってしまったので、もうすでに成功しちゃった人、スゲー幸せになっちゃった人が、もう何千人も何万人も存在する(はず)。
この前、社内で、ワクワクがどういう分野に存在するか、みんなで書き出してみようということになった。そーしたらねえ、(って急に話し言葉になる)なーんと、白板がメモであふれてもあふれても終わらなかった。つまり、もう無限にあるんだ。ワクワクの場所、というのが。
ワクワクに充分すぎる多様性がある理由は、世界の進行にバリエーションを出すため、といっていい。世界の均一化は世界の終焉であるから。離れた場所で生まれたふたりの結婚ほど、遺伝子にはよい影響がある。多様化は神の戦略である。
ここが100人の村なら、100通りのワクワクがある。同じ「お金がほしい」でもちょっとずつ違う。お金が溜まっていくプロセスが好き、という人は溜まりきってしまうと急速に興味を失ったりもする。歴史的なお金持ち(いま読んでるんだけど、本多静六さんとか)にもこうしたタイプがいる。晩年でいきなり全部寄付しちゃったり。また、お金を使うプロセスが好きという人、特定の目的、例えばフェラーリを買うためにお金がほしい、という人もいる。その場合はお金の先に、さらにいえばフェラーリの先に、より本質的なワクワクがあるのかもしれない。たとえばフェラーリで「見つめられたい!」というのであれば、役者になったほうがいいかもしれない。自分が本当はなにがほしいのか、自分で自分を冷静に観察すると面白い。もちろんフェラーリそのもの、アルミ削り出しのノブとあのクァーンという音がいいんだ、という人もいてもワクワクに貴賤はないので、それはそれで構わない。
なにかを創りだすことに無上の喜びをえる人、人に喜んでもらうのが無上の喜びの人、自己表現が命という人・・・。それがあまりに反社会的なものでなければ、その流れにまずは乗ってみよう。その川の支流は、また別の川の分岐へとながっている。そうして、思いも寄らない地平、神々しく夕陽に輝く海に人は出会うことができる。海をめざすには、地を歩くより川の流れの方がはるかに速い。
しかし、この個人のワクワクは、いったいぜんたい、どこからやってくるのか。たとえば親の育て方? 親の傾向の遺伝? 生活環境の鋳型? それもあるかもしれないが、本質的には、なんだかよくわからない。なぜ自分はモノを創ることにこんなにも喜びを感じるのか。なぜ色彩にこれほど感応するのか。それはだれにも答えられない。この人生以上のなにものかが、そこにある。そしてその「魂の震え」を命名し、名指しし、認知することは、人生という大河の、ある分流を明確に目視することであり、それはまた、不思議な紆余曲折を経て流れ込む黄金の海のありかを規定することに他ならない。魂の震えが、こんなにも懐かしい母の元へとあなたを運ぶことは、人生という舞台装置の思わぬ力学である。
  喜多見 龍一


 >  喜多見龍一の読むワークショップ ウェブ版