【2008年11月号】言葉は、私たちの内側(脳)と外側(世界)をつなぎ、かつ、その双方を変形させる。

ブッシュ大統領は、英語を母国語とする人たちにとっては、世界一有名な「言い間違いの権化」として、その名をとどろかせている。イラク戦争のときに「大量破壊兵器」(weapons of mass destruction) と言うべきところを、「weapons of mass production(大量生産兵器) 」と言い間違えたのは、彼の頭のなかをよく表わしている。もしかすると、彼がどういう背景で大統領になったのかまでをも表わしているのかもしれない(それに、イラクに大量破壊兵器はなかったわけだから、大量破壊兵器はproduce 生み出された、ともいえる)。この項を書いている頃もニュースで、「米国金融問題対策をexecute(実行) します」と言うべきところを「exercise(練習の意もあり)します」と言い間違えたし・・・。

私たちは、脳の中に、有機的な意味と結びついた言葉のつまったデータベースをもっている。そこから言葉を取り出して、自分の考えを表現するわけだが、そのときに、「本心」もこのひとつだが、「その人が世界をどうとらえているのか」(その人が信じていること、ビリーフ) が言葉選びに大きな影響を与えている。その「信じていること」に沿った言葉が口から出てくる、と言ってよい。つまり私たちが使っている言葉、それは単語であろうと文章であろうと、そのひとの脳の中に「今までの人生の経験を、自分はどう判断したか」(信念/観念)を色濃く反映しているわけだ。

もっとカメラを引いてみると、自分の内側のインターナル・マップ(脳内システム)と外の世界(現実)とが相互に影響を及ぼしているともいえる。外側→内側は、コンテキスト(状況)から言葉の意味を学び、経験が信念/観念を創っている(インターナル・マップ生成)プロセス。内側→外側は、自分が蓄積した言葉の意味、信念/観念(インターナル・マップ)をもとに、言葉を外に表現して、現実を規定し、創り出すプロセスだ。

つまり、私たちはその人が話す「言葉」を聞けば、そのひとが世界をどうとらえているのかを知ることができることになる。また同時に、自分の内なる地図から発せられる言葉に、深い気づきをもって接し、それをマネージすることができれば、そのことによって外の現実そのものの生成にも好ましい影響を与えることもできる、ということにもなる。

本年7月新刊のNLP の世界的名著「言葉を変えると、人生が変わる」のクリスィーナ・ホール博士は、NLP のトレーナーを育てるきわめて優秀な講師であるが、単に良い講師というだけでなく、この「言葉の気づき」をご自身で日々実践しておられることがまた、希有ですばらしい。彼女は、アルフレッド・コージブスキーの「一般意味論(ジェネラル・セマンティクス)」の第一級の研究者でもあるが、コージブスキーこそ、言葉は(その人の脳内の地図によって)常に歪曲されているので、常に私たちは言葉に気づきをもって接しなければならない、と生涯主張しつづけた人である。コージブスキーが大学で講義しているときの、言葉に関する印象的な逸話が残っている。クリスの単行本のなかでも紹介したが、お話ししよう。

彼が講義をしている最中に、ちょっとお腹がすいたなあと言って、突然ビスケットの袋を取り出す。そしてその一枚を学生に渡す。学生は、味わって食べる。その後で、コージブスキーはそのビスケットの袋を学生に見せる。そこには「犬用ビスケット」と書いてある。学生は口をおさえてトイレに駆け込む、というわけだ。本来ビスケットを食べたときの味は変わらないはずであるのに(一次的体験は変わらない)、コンテキストが変わることで意味が変わり(二次的体験が変わることで)、行動も変わってくる。

こうした言葉というインターフェースがもっている構造をよく理解し、それが「良い悪い」の軸ではなく、常に変形していることに気づきをもって生活することが大切だ、とこの本は行間で語っている。クリスさん自身が、この毎舜毎舜の気づきを生きていらっしゃる。彼女から「いや、そうじゃなくて」という言葉を聞いたことがなく、「興味深いですね、そういう考え方があるのですね」とおっしゃる。だいたい、こうおっしゃったときは、彼女はそうは思っていらっしゃらないのだな、と私は思うことにしているわけだけれど。しかし、話をしていて、とてもこちらが尊重されている感じがして、話は自然に建設的になる。たぶん、こういう言葉の使い方を日常的にしていると、「人間関係」が変わる(実際に変わったとおっしゃっている)。ご自身が研究し、その成果を信じている専門分野の事柄に関しても、知識で相手を判断しない。それは、博士が研究の過程で学んだ、「どうしても人間には、そう(歪曲)ならざるをえないシステムが存在している。自分もそのなかにいる」という気づきが歴然としてあるからであって、そのことから謙虚さをなくさないからなのだ。日常的には、なかなかできない凡人の私には、すばらしい日常のモデル以外のなにものでもない。

今回は、メタモデルについて書こうと思ったのだが、その前段階を書いてしまった。いままでなにか釈然としなかったメタモデルの考えが、この本によって氷解した話は、また次回。

喜多見 龍一


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