【2010年05月号】「希望」とはワクワクして旅行パンフを見ること。「明るい未来ムービーの繰り返し上映」だ。

日本にないのは希望だけ、と言われる。社会的な仕組みがないことも原因だが、日本人独特の生真面目さや、日本的無常観も後ろにあるかもしれない。しかし私たちの意識の側からこの「希望」を見ていくと、「希望」とは、実は私たちの" 頭のなかで起きている「想像」" なのだ、ということに気づくかもしれない。

つまり、私たちが旅に行くとき、旅行のパンフレットを見たり計画を練っているときのあの「ワクワクした気持ち」、それが「希望」の実態に一番近いように思う。つまり「まだ旅行には行っていない」のだ。実際に旅行にいくと、たとえば旅館や観光地がいまひとつとか、いろいろ難点も見えてくる。帰ってきてからも不思議だ。その、な〜んだの旅から五年十年経つと「あー、あのときみんなと行ったなあ」という甘酸っぱい「ロマン」に変わっていたりする。なぜなら、未来も過去も、すべて頭の中で起きている「認知」にすぎないからなのだ。

そうすると二十歳の若者にとっても、七十五歳の老人にとっても、未来はまったくイーブンということになる。なぜなら、どちらもまだ実際は「体験前」だから。対象時間の長短の問題ではなく、頭の中で、こと細かにその「未来ムービー」を楽しめるひとと、極端にいえば、そもそもムービー上映館そのものがないというひととが存在するだけなのだ。

日本では年間3万人以上が毎年みずから命を絶っている。年寄りばかりではなく、若いひとも希望をなくしているのがとても残念だ。しかし、これは精神医学の領域も関係していて、多くのひとが「あえて、暗い未来ムービーを繰り返し頭の中で上映しつづける」というサイクルに入ってしまい、そこから抜け出せないということが起きている。つまり「鬱」だったり「複雑性悲嘆」だったりなのだが。

鬱の引き金、たとえば深く愛するひととの離別や大きな地震などの強いショックの体験を基にして「悲しみから、いつまでもいつまでも抜けられなくなる状態」、これをピッツバーグ大学精神医学のキャサリン・シアー博士らは「複雑性悲嘆」と呼んでいる。名前自体はどうでもいいのだが、シアー博士はこの「暗い未来ムービーの際限ない上映」からどう抜け出すかの治療法も提言している。日本でもまだ臨床段階だが、使っている機関も出てきた。この「終わらない暗い未来ムービー上映」、つまり「希望の反対状態」もまた、「認知の歪み」であるから、徐々にそこから抜け出せる可能性がある。

この症状は「感情」と深く関わっていて、脳の特定の部位に関係することがfMRIで分かってきた。前脳に位置する「側坐核」(そくざかく) がそれで、この部位が誤動作して異常に活性化している状態であるという。

この部位は、以前は「快楽中枢」のひとつとして知られていたが、どうもその機能だけではなく、さまざまなことと関係していることが分かってきた。ここへの情報インプットは、前頭前野、扁桃体、海馬などから来ることからわかるように、「感情や記憶」とも深く関係。「報酬、快感、嗜癖、恐怖」などの事象に関わっていることが分かってきた。またさらに「やる気」「モチベーション」にも深く関係しているようだ。

この項でフォーカスしたいのは、その治療法。愛するひとの死でも、自分の身体にできた癌でも、とにかくいまの症状のきっかけになった出来事に、複雑性悲観の患者は、向き合って「認知」しない傾向があり、まずは「そのガチョーンな事実を認める」(認めないかぎり、次に行けないから)(またこれはつらいプロセスであって、臨床では10-20%がここでプロセスから離脱するという。セラピストの力量と立ち位置が問われる) 。次に、「楽しかった思い出」や「未来」にそのひとを誘導していく。つまり過去の事実そのものを変えることはできないが、私たちの「認知」は変えうることが大きなポイントだ。

これは以前見た、中国の四川大地震でのサポーターの取り組みのひとつ、最愛のひとたちを失った子どもたちへの「お絵描きセラピー」ともかなり近い。まず、実際に起こったこと( 親しいひとの死の場面) を描かせ、同時に「未来」について思いを馳せてもらい、「未来を描く」(たとえば崩壊した学校の再開など) 。そしてそのふたつをブリッジさせる。「最愛のひとがなくなっても、未来は(つまり、希望は) あるのだ」ということを絵を描くプロセスのなかに塗り込んでいるのが手法として秀逸。

悲しみのなかにある「認知」を否定せず、むしろ積極的に認め、なおかつ、それと本来はまったくなんの関係もない明るく楽しい未来、あるいは未来の新しい経験を同時に思い描く、という方法論が、認知の歪みを徐々に修復していく。この論点は、私たちの日常にも大いに使えるのではないかと思う。セラピーというのは、もちろん主に深く傷ついたひとのためのものだが、私たちの日常も五十歩百歩だし。別にそんなに大層な希望じゃなくてもいい。あした気の合う友だちと会ってとりとめのない話をするんだとか、今日の夕御飯になにかおいしいもの食べるんだとか、いつもと違う電車に乗って別の街を散歩するんだとか、それを考えると、ちょっとワクワクしちゃうんだよなあー、というのが私たちに一番身近な「希望ムービー」だろう。もっと時間の長い希望や、もっと大きな希望もあるだろうが、なんであれ、私たちは「希望なしでは生きていけない」生き物であることは間違いないから。

6月12日(土) には、パッチ・アダムスさんにお願いして、特に日本のために「希望」にフォーカスして半日ワークをリードしていただきます。彼がどんなアプローチでこのテーマに迫るか楽しみです。

喜多見 龍一


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