【2002年11月号】人間、ハラができると尊重できるよーになる。

2002年 11月号

人間、ハラができると尊重できるよーになる。

 尊重する、とは「相手の人生」を認めるということで、尊敬とは違うが大切なものだ。尊敬はできないけど、尊重だったらしてやってもいい、という人はいるんじゃないかな。つまり、尊敬というのは感情も入ってるし、結構エネルギーがいる。でも尊重する、というのは非常に理性的で、あんたの人生は決して好きじゃあないけど、でも別にそれはあんたの勝手で、認めてやってもいいぜ、と言ってるわけで。好き嫌いという感情の話が即認める認めないにはならい、という、そこには理性が働いている。
たとえばひとつの国が、なにか間違った選択をしてその後の歴史がひどいことになる瞬間というのも、ほとんど必ずと言っていいほど、私たち国民の「感情」をうまく利用している。それは国が悪いというよりは、国民が感情と理性をごっちゃにしたツケで、尊敬の反対概念の嫌悪感と理性による尊重が共存しうるものだということに思いがいかなかったのだ。
感情はうまく使うとエネルギーの源でとても役に立つ馬車だが、暴走するとどうにも止まらない。感情がダイナミックに動いているときは、ハラワタが煮えくり返る、という表現でもわかるように、腹から来ている。理性は首から上にあって、起きた事柄に身体のどの部分で反応するか、意図的にセンター(活性化した部位) を移動させられると便利。しかしハラから頭に活動センターを移動させても、それらが別々に働いていると、本当の意味で腑に落ちるという感じにはならず、無理やり押さえつけるような感じになるだろう。本当に十全に「私はあなたを尊重する」という反応には、ハラが参加する必要がある。下から二番めとか三番めのチャクラ。ここは理性が存在しない、ただのおバカかというとそんなことはないのであって、このハラのセンターに理性をペアにして組み込めると、「ハラの座った」ひとになることができる。つまりいちいち強い感情に左右されずに、価値観という理性にも照らして、どっちに行こうか、という判断ができる。人間はどうも、ハラでも考えることができるようで、古来からそうした秘伝はさまざまな文化に奥伝として伝わっている。こうしてハラとアタマが統一されると、感情、好き嫌いは理性と統合され、逆のパターン、つまり理性から感情を繰り出す、ということも自由にコントローラブルになってくる。怒ってもいないのに火のついたように怒ったり(ま、別に必要がないのにこんなことやらないんだけど) 、どん底の感情の中からカメラを引いてみたり比較的簡単にできるようになるかもしれない。ハラとアタマがメビウス状態になった人間は、力強い安定感が売りで、一家に一台置いておきたい頼れる感覚をただよわせているだろう。この秘伝を心理の側からアプローチすることもできるし、身体感覚(チャクラ) の側から成し遂げることもできる。チャクラというのは、英語でいうところのマンボー・ジャンボー(ホラ、ごたく)ではない。いつの日か、ああ、あの身体感覚地図は正しかった、といわれる日がきっと来る。
  喜多見 龍一


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