【沙羅】コラム2

COLUMN

苦行僧症候群

苦行僧症候群の人は“頑張り屋さん”です。
しかし、その頑張りが空回りしていることに気づかずに「もっと頑張らなきゃ!」と自分の作り上げた苦行のスタイルから抜けられない人です。

痛みや苦悩から人間は学び、成長します。確かにそうです。そう思います。
私自身もいろいろな痛い思いをし、悩み苦しんだ末に問題は他人じゃなく自分にあると言うことを学びました。
そして今でもその問題を引き寄せる自分の資質をコツコツと改善しています。

痛い思いをして学んだ経験があるからこそ、人生で辛い時期を通過中の人には「今は辛いだろうけど、絶対に必要な経験だったと後から必ず分るから」と言うこともできます。
学ぶために痛みは“時には”必要だと思います。

しかし、学ぶために痛みが“一生”必要だとは思っていません。

ところが苦行僧症候群の人は「痛みは学び」「学ぶためには痛みが必要」という設定がバイオコンピューターにあります。

向上心の強い苦行僧症候群の人は自分をより向上させるために痛み(精神的・肉体的)を求めるのです。さて、どのような環境がこの苦行僧症候群を作るのでしょう?

 

子供の時に我慢することを求められ、我慢したことだけを褒められて育った記憶のある人

「お姉ちゃんなんだから、我慢してね」
「お利口ね〜、ちゃんと我慢できたね」
「この子は本当に我慢強い子で弟たちの面倒も良く見てくれて本当に助かるわ」

親はそれ以外のことでも褒めたかもしれません。
しかし、忙しい親にとって我慢強い子供は助かるのです。
だから、ついつい子供のお絵かきよりも我慢してくれたことに対する褒め言葉の方にエネルギーが入ってしまうのは仕方がないことです。
子供はそれを敏感にキャッチしてしまいます。

「苦労することが人生だ」「苦労したから今があるんだ」

というような話を親があるいは周りの大人たちがいつもしていた。
もちろん、これは事実であり、苦労することは学ぶことです。
しかし、その苦労の部分ばかりを聞かされてしまうと「人生を楽しく過ごしてはいけない」と子供は受け止めてしまいます。
英語でも“No Pain,No Gain”と言います。
痛みなくして利益が得られないということです。

“No Pain,No Gain”の分りやすいケースの一つを紹介します。
度重なる辛い体験を一つずつ克服して元気になってきたクライアントからこんな質問をされました。

「昔は問題が起きると、どうしてこんなことが“私に”起こるの?何も悪い事してないのに?なんて思っていましたが、何回かのセッションを通して今ではそれら全てが自分にプラスになっていることに実感ができ、とても楽になりました。
パートナーとも関係も仕事も順調です。
でも…こんなに楽な人生を送っていたら、私はもう学べない、これ以上成長できないと思ったら不安になりました。
私はもう人間として成長が止まっているということでしょうか?」

辛いことがあった時に「これも修行だから、この試練を受ける」と、試練を乗り越えていく方が「どうして自分がこんなめに合わなければいけないんだ」と起きたことを呪うよりは、ポジティヴで心を健全に保つことが出来るでしょう。
可愛そうな自分という被害者意識を捨てて、前向きに取り組みことによってその苦境から抜け出すのも早くなるでしょう。

ところが「これも修行だから、この試練を受ける」を超ポジティヴに受け入れ過ぎてしまうと「試練を乗り越えた時に自分が今よりも成長している」となります。
そして、それが「試練がないと人間として成長できない」と変形してバイオコンピューターに設定されてしまった場合、平和な生活に漠然とした不安を感じ、自己改革心の強い人は試練(痛み)を恋しがります。

重症になると「そろそろ、何か(問題が)来るんじゃないかな。こんなに平和な時が続くはずがない」と構え、疑いや不安がどこからか湧き上がってきます。
問題がない穏やかな生活にいても心の中は100%穏やかではないのです。
そして、人々はその不安や恐怖から問題を生み出すのです。

親子関係、男女関係そして国家の関係も同じです。疑いと恐れが戦いを作り出します。

ここに宗教的な要素が加わると、試練=神の愛、になってしまいます。
試練は“神の愛”だと言って執着をしているので苦が引き寄せられます。
もちろん、本人は自分が苦に執着をしているとは全く思っていません。
「ありがとう神は私にこのような試練を与えてくれ。頑張ります」と神に感謝してただ、ひたすら苦行を続けるのです。

苦行僧症候群の代表的な症状

  • 肉体を酷使することに喜び (意義) を感じる
  • 痛みを伴わなければ真の学びはないと思っている
  • 避けることができる状況でも、あえて苦労を買って出る癖がある
  • 肉体的な痛みに強い(それが自慢だったりすることもある)
  • 「苦労は普通」と受け止めている人が周りにたくさんいる
  • 我慢強い、頑張り屋さんとよくコメントされる
  • 苦労していない人を見るとムカつく

指圧などのマッサージを受けた時に「痛いですか?」と聞かれ、痛いのに「大丈夫です。痛いのには慣れています」「痛い方が効くからもっと強く押してもらっても大丈夫です」と応える人は苦行僧症候群の可能性が高いですよ。

便利が当り前のような生活にいると感謝が無くなっていきます。
意識して生活していないと、私たちの周りにあるほとんど全てのことはあまりにも当り前になってしまい、唯一それを失った時に価値を感じるものです。
お湯が普通に出る生活に慣れている現代人が不自由なキャンプ生活やお湯の出ない国に旅を経験した後、ひねるだけで出てくる温かいシャワーに心から感動します。

シャワーがない、あるいは水しか出ないシャワーを経験したからこそ、今まで満たされていたことに「気づき」そして「感謝」します。
しかし、その気づきのシステムが分かれば、失う前に感謝の生活をするようになるはずです。

「たくさんの痛いことから自分の欠点を十分に学びました。
そして今では自分が精進できるよう日々意識をして生きています。
これからの人生は痛い経験をしなくても感謝を持って生きて行くことが出来ます。
どうか楽しいことから感謝の生活をおくれるようにしていただけますか?」
と、宇宙に、あるいは神にリクエストする選択肢もあるのではないでしょうか?

すでに感謝の生活をする癖のついた貴方ならわざわざ苦から学ばなくても喜びから“感謝”を学ぶことも出来るはず!

そして、自分が苦の中にいるのではなく満たされた生活をしていれば、まだ満たされていない他人に手を差し伸べることが無理なく出来るのではないでしょうか?

この苦行僧症候群も清貧崇拝症候群と共に真っ先に人類から取り去りたい症候群です。